話の肖像画

真矢ミキ(23)悲しみを忘れたかった母の代わりに

母の佐藤雪子さん(右)と
母の佐藤雪子さん(右)と

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《結婚式から4年後の平成25年、真矢さんと夫の西島数博さん、真矢さんの母、佐藤雪子さんとの新生活がスタートした》


毎日、おかしな出来事の連続でした。同居にあたり、それぞれに独立した空間がなければお互い気を使うだろうと考え、一つ一つの部屋が猫の額のようなマンションに引っ越しました。

しばらくすると、家のあちこちで母のワントーン上がった声が聞こえる毎日となり、母は自室から出てくるとき、えらく着飾るようになった(笑)。西島さんが「ママ、すてきですね」なんて言うと、「ヤダ、ただの部屋着よ」と完璧に舞い上がって笑う姿が、私には、うれしいやら、恥ずかしいやら…。


《同居生活は、雪子さんが入院する28年まで続いた》


同居した3年半は、母にとって思いがけずキラッとした時間になっていたと思います。兄夫婦も鹿児島に転勤した中、2カ月おきくらいに母を九州に呼んでくれ、2週間くらいゆっくり過ごし、また都内に帰るサイクルが自然と出来上がりました。

家での役割分担は、私は食事を作る人、母は洗い物をする人、西島さんはみんなに優しくする人―で、母を舞台や散歩に連れ出してくれました。母を挟むと笑いが絶えず、西島さんとの新たな関係性もできました。

ただ母の場合、83歳ごろから足腰の老いのスピードが加速したように思います。十分気を付けてはいたのですが、母はある日、玄関で尻もちをついた衝撃で、大腿骨頸部(だいたいこつけいぶ)を骨折し、入院することになりました。


《当時、真矢さんは早朝の情報番組の司会をしていて、午前中は不在だった》


一人で歩けないと、お手洗いの世話が必要ですから、母の入院をきっかけに、デイサービスを1年くらい利用し、その後、都内の高齢者施設のお世話になることにしました。ただ認知症予防には、生きた会話が必要なので、私は仕事が終わると母の好物を持って、できるだけ施設に足を運ぶようにしました。


《施設入所からしばらくして、雪子さんの様子が変わった》


私に向かって、母の妹、つまり私の叔母の名を呼びかけたんです。まさか…と思い、冗談めかして「嫌だ、美季(本名)よ。あなたの娘よ。私を忘れたわけじゃないよね?」と言った瞬間、母の手足の指が、キュッと萎縮するのが分かりました。


《施設から、真矢さんは真っすぐ家に帰れなかった》


父と、兄と、私と過ごした50年以上の月日を、母が忘れた。大切な家族の記憶が消えた現実を、受け入れなければならない。「母の娘」から卒業し、一人の大人に今、ならなければならない。母が忘れた記憶を、私は忘れまい、とあの夜、心に決めました。


《その日(30年8月20日)、真矢さんはブログに思いをつづった》


「今日、母が私を忘れていた。今年で米寿を迎える母 母の夫、私にとっての父が他界してから約14年がたつ あの(日、)父が亡くなった夜から、母は少しずつ悲しみを忘れたいのか、現実逃避していった気がする 私はあえて認知症なんて言葉は使いたくない 悲しみを忘れたかった母の気持ちがわかる気がするから だけど 今夜は一人 ただ、どこまでも歩きたかった(後略)」。


《ブログには介護を担う同世代から大きな反響が寄せられ、コメント欄に書き込みが殺到した》(聞き手 飯塚友子)

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