日曜に書く

論説委員・斎藤勉 プーチン流「制限主権論」

オンライン開催された集団安全保障条約機構(CSTO)の緊急首脳会議に参加するロシアのプーチン大統領=10日(タス=共同)
オンライン開催された集団安全保障条約機構(CSTO)の緊急首脳会議に参加するロシアのプーチン大統領=10日(タス=共同)

「シナトラ・ドクトリン」

「ソ連には今や、フランク・シナトラ・ドクトリンがある。彼には『I did it my way』という歌がある。そのように、(ソ連共産圏の)すべての国は、選択したい道を自ら決めるのです」

東欧の共産主義国で民主革命が相次いだ1989年の10月25日。ソ連外務省スポークスマンのゲラシモフ氏は米テレビ局の情報番組で米国の超ビッグなスター、シナトラの大ヒット曲『マイ・ウェイ』の一節を引いて、クレムリンが長年、東欧諸国を縛り付けてきた「ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)」からの解放を明言した。

68年8月、チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」を戦車で蹂躙(じゅうりん)したソ連・ワルシャワ条約機構同盟軍の蛮行の正当化に使われたのがブレジネフ・ドクトリンだ。「社会主義圏全体の利益は圏内のどの一国の利益にも優先する」との強引な理屈付けは、後付けで56年のハンガリー動乱にも用いられた。

制限主権論はソ連最後の指導者、ゴルバチョフ氏が「新思考外交」で88年3月、ユーゴスラビアを公式訪問した際、すでに放棄を表明していた。だが、魅惑的な響きを持つ「シナトラ・ドクトリン」はソ連・東欧の民衆、特に若者たちの自由化要求を一段と鼓舞もした。ゲラシモフ発言からわずか15日後の11月9日、東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊。その約2年後の91年12月にはソ連自体があっけなく消滅してしまった。

NATO拡大で屈辱増幅

85年から5年間、国家保安委員会(KGB)のスパイとして東ドイツの古都、ドレスデンで勤務したロシアのプーチン大統領は仕事柄、「シナトラ・ドクトリン」は知っていただろう。東ドイツの秘密警察「国家保安省(シュタージ)」と緊密な関係を築いていたプーチン氏にとって、目の前で起きたベルリンの壁崩壊からソ連帰国後の90年10月の東西ドイツ統一、統一ドイツの北大西洋条約機構(NATO)加盟、そしてついには祖国の消滅、と急展開する歴史はまさに屈辱の連続だったはずだ。

2000年5月の大統領就任以来、プーチン氏の屈辱を増幅してきたのが「NATOの東方拡大」だ。ブレジネフ・ドクトリンの呪縛を解かれた東欧諸国は1999年以降、かつての敵陣・NATO加盟へと雪崩を打ち、ソ連崩壊時は16カ国だったのが現在はソ連構成国だったバルト三国も含め30カ国に倍増した。

「西側にひどく騙(だま)された」

プーチン氏は昨年末の内外メディアとの会見で語気を強めた。90年のドイツ統一交渉で米・西側が「NATOは拡大させないとした約束を破った」との前提に立った憤りだが、実は「NATO不拡大」を確約した公式文書など一切存在しない。

カザフ騒乱と露勢力圏

その会見後の年明け早々、中央アジアの旧ソ連・カザフスタンで燃料値上げが原因とされる全国的な騒乱が起き、トカエフ大統領の要請でロシア軍主体の集団安全保障条約機構(CSTO)平和維持部隊が急派されて弾圧に緊要な役割を果たした。CSTOは加盟6カ国が外部から攻撃を受けたときに集団的自衛権を行使する目的で2002年に機構化された。加盟国のカザフ国内の民衆蜂起への出動はワルシャワ条約機構軍の「プラハの春」圧殺を彷彿(ほうふつ)させる。

ブレジネフ・ドクトリン〝理論〟の「社会主義圏」を「ロシア勢力圏」に変えた「プーチン・ドクトリン」の狼煙(のろし)を上げたのか。プーチン氏はバルト三国以外のソ連構成国でNATOとEU(欧州連合)に未加盟のウクライナやジョージアなど11カ国を「断固として手放さない勢力圏」とみなしている。

すでにロシア単独でジョージアには軍事侵攻(08年)し、ウクライナのクリミア半島を併合(14年)した。今回、CSTOの初の同盟軍派遣は、加盟各国がカザフで3年前まで約30年間、独裁権力を握ってきたナザルバエフ氏を完全に見限り、トカエフ体制を支持する意図を明確にしたとの見方もある。

「ソ連崩壊は20世紀最大の地政学的な大惨事」とのプーチン氏の深い嘆きは、ブレジネフ・ドクトリンを自ら放棄したゴルバチョフ氏への憤りでもあるが、「プーチン流・制限主権論」は世界の大いなる攪乱(かくらん)要因だ。昨秋以来、ロシアが大軍を国境に展開し続けるウクライナ危機は日増しに深まっている。

果たして、「プーチン・ドクトリン」が「シナトラ・ドクトリン」に転じる日など来るのだろうか。(さいとう つとむ)

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