平成7年の阪神大震災から1月17日で27年の歳月がたった。あの年の大みそか、被災地の人々の心を支えた歌声がある。前川清さんがNHK紅白歌合戦で歌った「そして、神戸」だ。別れをつづった歌詞に、被災者の心を思い、いったんは封印を決めた曲。それを解いたのは被災者だった。「月日が流れても、この曲を歌うときだけは特別な感慨がある」。あのときの歌唱に込めた思いとともに、前川さんは今も歌い続ける。
震災の年の紅白
神戸、泣いてどうなるのか-歌い出しに「神戸」が入る印象的な歌詞。前川さんは今もこの曲を歌うときは、胸に熱いものがこみ上げる。
震災が起きた年と同じ平成7年。12月31日のNHK紅白歌合戦に出場した前川さんは「そして、神戸」を歌った。歌唱中、テレビでは神戸の夜景の生中継の映像が重ねられた。
映像は前川さんの目の前にあるモニターにも映し出されていた。夜景の美しさで知られた街のまばゆさは失われていたが、かすかにともる明かりが見えたという。
「少しずつ復興していく街の姿に、歌いながら胸が熱くなったことを覚えています」。前川さんはそう振り返る。
被災者のリクエスト
平成7年1月17日早朝、マグニチュード7・3の大地震が阪神間を襲った阪神大震災。崩れた神戸の街並みからは、各所から煙が上がっていた。多くの命が失われ、やり場のない思いが街を包む。
かなわぬ恋、思いを歌う「そして、神戸」。前川さんは歌詞の表現が被災者の心を傷つけると考え、「もう二度と歌うことはない」と思っていた。
同じ年の秋のこと。震災で結婚式を開催できなかった地元の数組の新婚夫婦が合同で挙げた式に、前川さんは「立会人」という形で呼ばれると、参加者たちから「そして、神戸」をリクエストされた。
「歌っていいのか、不安でした。でも皆さんにとって少しでも励みになるならと歌ったところ、喜んでくださって」(前川さん)
紅白歌合戦への出場が決まると、被災地からは「そして、神戸」を歌ってほしいという手紙が届いた。NHKにもリクエストが殺到したという。
「『呼んで帰る人か』などの歌詞が、不思議に被災者の方々の心と重なるのです」と前川さん。「この歌を聞いてくださった方の力に少しでもなるなら歌わせていただく。それだけでした」。思いを込めたその歌声に、「そして、神戸」はいつしか人の心を支える歌に変わり、神戸の街に響いた。
多くの別れ
前川さんにとり、神戸は憧れの街だった。
「震災前、神戸で一緒に住みたいと思って、母と神戸の街を歩いたことがあったんですよ。2人でお茶を飲んでね。おしゃれな街で、港があって海が見えて。神戸のような街はほかにはないですね」
震災から27年。街並みだけを見れば神戸は復興を遂げたが、前川さんには印象が変わったように見えている。
「震災で多くの人の命が失われ、多くの別れがあった。街の風景にどこかしら切なさ、もの悲しさが見えるように思われるのです。震災を経験した方々の心にはどんなに時がたっても、そういう思いがあるのではないでしょうか」
前川さんは今も襟をただして「そして、神戸」を歌う。「誰も僕のようには歌えないと思っています」と力を込めて。(亀岡典子)
「そして、神戸」 作詞は千家和也氏、作曲は浜圭介氏。前川清さんがボーカルの一員を務めるグループ「内山田洋とクール・ファイブ」が昭和47年にリリースした。男女のかなわぬ恋を港町・神戸の情景に重ねたグループの代表曲で、48年の日本レコード大賞で作曲賞を受賞。前川さんもコンサートのたびに歌う。