話の肖像画

真矢ミキ(16)大好きだった父との思い出

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《40歳を目前に、ついに女優としての活動は軌道に乗った。ただプライベートでは、真矢さんを溺愛した父、佐藤隆二さんの闘病生活が続いていた》


日本の高度成長期、航空会社のモーレツ社員だった父は、私の自慢でした。娘の私が言うのも何ですが、見た目がキリッとしていて、仕事もできて、英語が堪能で、社交的で友人も多かった。海外出張も多く、普段はほとんど家にいませんでしたけれど、たまの休日、子供時代の私は、あぐらを組んで新聞を読む父の脚の中にスッポリはまって、父を独占しました。

父と私は昔から「一卵性双生児のよう」と言われ、顔も性格もよく似ていたんです。何しろ宝塚で男役になった私を見て、母が開口一番、「パパの若い頃みたいでヤダ!」と照れつつ、驚愕(きょうがく)したほどです。

父権を振りかざすことは全くなく、宝塚で日に日に〝息子化〟する私を、「君の人生なんだから、謳歌(おうか)しなさい」と温かく見守ってくれました。ただ久しぶりに家族が集まったあるお正月、父が、兄と私を見て、「何はともあれ、2人ともいい男に育った」とうっかり漏らしたときには、私も複雑な気持ちになりましたが…。


《隆二さんは、真矢さんが花組トップスターに就任した平成7年、航空会社役員を定年退職。すると長年の無理がたたったのか、体調を崩しがちになった》


全速力で走っていた自動車が、急ブレーキをかけ、きしんでいるかのようでした。ただ私が宝塚を退団後、仕事がなかった数年は、今思えば家族との大切な時間が持てました。

私は15歳で宝塚音楽学校入学のため、寮に入りましたし、同時期、3歳上の兄も大学進学のため、家を出た。きょうだい2人とも、「とりあえず行ってくるよ」みたいな感覚で、お別れの乾杯もせず、あの日から一家4人の同居はなかったんです。だからこそ私も35歳になって、今までできなかった家族旅行を楽しみ、両親といい時間を過ごせて幸せでした。


《20年ぶりの一家だんらん。しかしこの頃、すでに隆二さんの体は、かなり進行したがんに侵されていた》


バラバラに暮らしていた家族が、父のがんが判明してから、集まるようになりました。気丈で、いつでも格好良かった父は、闘病中も一切、苦しんでいる姿を見せなかった。私が2時間かけて病院に駆けつけても、5分もすると「暗くならないうちに帰りなさい」と冷静な父親を貫きました。

亡くなる前年、15年のクリスマスは、病室で父と2人で過ごしました。母との結婚前、好きなフランス人女性がいた逸話や、海外の取引先との食事の際、契約獲得のプレッシャーで食べ物が喉を通らないどころか、ナイフとフォークを握った手が動かなくなった思い出など、初めて聞く父の世界でした。

5年間の闘病生活で、3度の転移を経て、親の役割を降りたのは、本当に死の直前。「もう、手遅れなんだな…」って私の前で、初めて泣いたんです。私も泣きました。すごくつらくて、悲しくて。15歳で親元を離れ、やっとつかんだ父との幸せな時間が、音をたてて壊れていくような気持ちでした。父親ではなく、一人の弱音を吐ける患者になったと感じました。

亡くなった日も、家族全員で父のベッドを囲みました。父が楽に召されるよう、昏睡(こんすい)状態に陥っても家族全員で、「苦しかったら、逝っていいからね」って、声をかけ続けました。


《16年1月31日、73歳で隆二さんは亡くなった。くしくも真矢さんの40歳の誕生日だった》(聞き手 飯塚友子)

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