「元気? 今、どこにいるの? 中国?」。香港でSNSを通じてこんなメッセージを受け取ったら、どう答えるか―。
香港の有名女優、アニタ・ユン(袁詠儀)=(50)=の息子(15)は、「ううん、今はいない」と返信し、香港の写真も添えた。「今は中国にいない。香港にいるよ」の意味だ。
これが中国本土のネットユーザーたちの怒りを買った。「香港は中国の一部ではないのか!」「香港独立分子め!」
アニタは謝罪に追い込まれた。「誤解を招いたので誤りを正します…(息子には)同じ過ちをしてはならないと言い聞かせました…私たち一家は中国を愛し、香港を愛しています」とSNSにつづった。
最初、笑い話かと思った。一国二制度の下では、「中国と香港」といえば「中国本土と香港」を意味することなど常識だった。しかし、約1年ぶりに訪れた香港には一笑に付すことが許されない雰囲気があった。
香港人はますます言動に注意し自己規制するだろう。中国への忖度(そんたく)が加速するほかない。
大当たりのアニタ
もう一人のアニタの話をしたい。アニタ・ムイ(梅艶芳)。香港を代表する歌手・女優で、2003年、病気のため40歳の若さで亡くなった。文字通り香港のトップスターだった。
香港では昨年、映画「梅艶芳」が大ヒットした。1960~90年代の英植民地時代の流行歌や香港の歴史が随所に盛り込まれ、香港人の郷愁を誘った。
ただ、89年の天安門事件に際し、アニタが中国の民主化運動を支援したエピソードは省かれている。中国本土での上映を考え、中国の意向を忖度したのだろう。香港では昨年、映画の検閲も強化されたばかりだ。
それでも、映画は悪くなかった。「香港は私の家だ」と中国への返還後も香港にとどまり、病魔に侵されながらも「不可能なことはない」と最後のコンサートで歌い切ったアニタ。香港国家安全維持法(国安法)の施行後、自由がどんどん奪われていく香港に生きる人々への応援歌のようにも感じられた。
広東ポップと歴史
香港の芸能界が久しぶりに沸いている。香港で使用される広東語の歌、広東ポップが人気なのだ。ブームの立役者は「ミラー」という12人の男性アイドルグループだ。大みそかのカウントダウンイベントでも香港人たちの熱狂の声に包まれた。
今回、香港で気付いたことだが、市民の間で香港の歴史への関心も高まっている。英領時代の史跡めぐりや歴史講座が人気なのだ。100年以上前に造られたローマ式貯水池の一般公開の際も、応募が殺到した。
もちろん、新型コロナで海外旅行ができない影響もあるだろう。民主派の男性(32)は「自らを中国人と考えたくない市民たちが、香港人とは何かを探求し始めた」とみている。
親中派の重鎮で、シンクタンク「全国香港マカオ研究会」の劉兆佳副会長(74)は「(2019年のデモで)目標を達成できず、失望した若者たちの新たなはけ口になった」と分析する。
ある歴史家の覚悟
興味深かったのは、外国語の女性講師(30)の意見だ。「香港人が自分たちの文化を強く意識するのは、何かが消えようとするときだと思います」
とすれば、香港人は現在、無意識のうちに、自分たちの言葉と歴史が失われる危機感を抱いている―ことになる。
「香港が香港らしいのは〝消える〟からです」ともいう。
確かに、英領香港は1997年に消えた。一国二制度下の香港も、本来は返還50年後の2047年に消えるはずだった。
しかし、20年に国安法が施行されて一国二制度が崩壊。中国にのみ込まれた香港は、世界史に登場した19世紀以降初めて、消えることを前提としない時代に入った。そして中国の支配から逃れられなくなった今、急速に広がっているのが北京への忖度といえるのかもしれない。
受難の時代が来た―と頭を抱えるのは50代の歴史家だ。一般市民対象の歴史講座を準備していた昨年のこと。主催団体から「(台湾の)青天白日満地紅旗が写った戦争中の写真は使わないで」と指示されたという。
彼は「歴史的事実さえ問題視するのか」と北京の意向を過度に忖度する風潮に憤る。だが、香港を離れるつもりはない。
「歴史家として、香港がどう変わるのか、悲しいことだが、どう転がり落ちていくのかを見届けたい」。そう言い切った。(ふじもと きんや)