評伝

海部俊樹氏 弁舌巧みな「きれいな政治」

海部俊樹夫妻。右は幸世夫人。=1989年(平成元)8月10日、東京・三番町
海部俊樹夫妻。右は幸世夫人。=1989年(平成元)8月10日、東京・三番町

政治信条を問われると、常に「わかりやすい政治」「きれいな政治」を繰り返した。だれでも分け隔てなく聞き、話すスタイルは親しまれた。首相就任直後には「総理と呼ばず、海部さんと呼んでくれていい」と頼んで番記者を驚かせたこともあった。

現行憲法のもとで初の改元となった平成の即位礼では、首相としてご即位を祝し万歳を三唱した。儀式のありかたも手探りで、当初は「束帯」の着用を提案されたが、燕尾服着用にこだわった。後年、「首相の私は国民の代表だ。宮内庁長官らのような『随従』じゃない。(宮内庁関係者から)何度も言われたが、絶対イヤだと断ったんだよ」と力を込めた。「わかりやすい政治」のため、ときに頑固に譲らない一面も持っていた。

早大雄弁会時代は「海部の前に海部なし、海部の後に海部なし」といわれるほどの弁論家だった。そのキレは政界引退まで衰えなかった。一方で、政局判断では弁舌ほど冴え渡るとはいえず、読み違いも多かった。首相在任中には衆院解散を示唆したが踏み切れず党内の求心力を失い、退陣を余儀なくされた。平成6年には自民党を離れ、小沢一郎氏らと組んで首相指名選挙に臨んだが、再登板はならなかった。

政治に理想を追い求めすぎたためか、人に誠実さを頼みすぎたのか。手ひどい仕打ちと憤った相手でも、二人きりで何度も会うと許した。

政界引退後、なぜ懲りずに許したのかと尋ねたことがある。しばらく黙って考えたのち、「まあ、だまされるんだなあ」と苦笑し、「今の政治をきれいにするには海部さんしかいないと涙を流すんだから」と振り返っていた。戦後の日本人が、あたかも国内外で共有しているかのように考えていた「善意」を体現した政治家だった。(佐々木美恵)