話の肖像画

真矢ミキ(12)見つからない居場所…苦悩の日々

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《平成10年に34歳で宝塚歌劇団を退団後、女優の仕事が軌道に乗るまでに、4年半を要した》


宝塚を辞めるときは、「これからどんな女性になろうか」と真剣に考えました。私はもともと宝塚らしくない〝革命児〟と呼ばれましたし、在団中からあまり浮世離れした人にはなりたくなかったので、楽屋入りのときは大体、新聞を持っていました。社会の動きも意識していたかったからです。

でも、いざ辞めてみると、やはり社会とのズレを感じた。というのも20年間、ずっと男役を追求し、男性の気持ちばかり考えて生きてきたので、すっかり内面も〝男〟になっていたからだと思います。

トップスターって、いわば組織の管理職みたいな立場です。80人近い組子一人一人が、気持ちよく舞台に立って、作品のために全力を尽くしてくれるよう、常に方向性を示しながら、頑張っている背中を格好良く見せなければ、付いてきてくれません。そういう生活を送っていたから退団後、たった一人で東京に出て、無理して30代の女性にならなくてはと、ギクシャクしていたと思います。


《等身大の〝女性〟に戻るための試行錯誤で、当時はよく街歩きをしたという》


OL風のスーツに身を固め、丸の内や霞が関を闊歩(かっぽ)したり、肩の力が抜けた個性派ファッションで代官山などもうろついたりしました。宝塚では「花組トップスター」という強力な切り札があったけれども、新しいカードをゼロから作らなければならない。次の道を探るため、とにかく動いて、自分は何に反応し、どんな女性になりたいか、探っていました。


《舞台の仕事は断った。映像に専念するためだが、認められず、仕事が激減した》


苦労するだろうなあ、とある程度は予想していたのですが、想像を絶する「頭打ち」でした。映像には合わない、舞台の演技がなかなか抜けなかった。

そのうち声が掛からなくなって、今度は普通の女優なら断るような、海外での体を張った過酷な旅番組や、ドキュメンタリーの仕事が回ってくるようになりました。マネジャーももちろん付かない、アフリカ弾丸旅行では、スタッフの機材を運んだり、一緒にテントを張って夕食を作ったり。それはそれで貴重な体験でしたが、役者とは程遠い日々でした。


《ブレークするまでの後半2年は、ほぼ引きこもり状態だった》


埋まらないスケジュールを、英語の勉強やジム通いで埋めていましたが、心は満たされなかった。やがて友人の誘いも何かと理由を付けて断るようになり、家の外に一歩も出ず、ベッドの中で一日中、寝る日が続いた。なぜなら、寝ている間は何も考えなくて済みますから。この頃、華やかに活動していた宝塚時代を知る友人たちからも、「ミキの魅力が出てないよ」「映像は向いてないんじゃない?」などと言われました。

私を思っての苦言だったと思うし、事実、その通りだったと思います。私自身、それを一番よく分かっていたし、ますますどうしていいか、分からなくなった。劇団の頃は拒食でしたが、今度はストレスで過食に走るようになったんです。

あとで気が付きましたけれど、私は宝塚退団後の燃え尽き症候群から、うまく芸能界で居場所を見つけられず、鬱状態になっていたと思います。宝塚時代、あれだけ多くのファンの方に愛していただいたのに、誰からも必要とされなくなって、その落差に苦しんでいました。


《鳴かず飛ばずの状態に38歳のとき、ついに当時の所属事務所から「戦力外通告」を受けた》(聞き手 飯塚友子)

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