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真矢ミキ(11)「宝塚」退団、映像の世界で戸惑う

花組トップスターとして人気絶頂の時に退団した=平成10年10月
花組トップスターとして人気絶頂の時に退団した=平成10年10月

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《花組トップスター就任から3年半を経た平成10年10月、東京・宝塚1000days劇場での「SPEAKEASY」「スナイパー」への出演を最後に退団。入団から18年目、人気絶頂でのサヨナラ公演だった》


おかげさまで、宝塚ファンではなかったお客さまにも公演を見ていただけるようになりました。3年半のトップ期間は、先輩方と比べて長くはなかったのですが、当時2番手だった愛華みれさんは生まれた年が同じで、もう譲るべきだと思った。私自身、「やりたいことはやった」という充足感もあって、組子もしっかり付いてきてくれ、「今、辞めたら最高に幸せだな」と思えたんです。また(現役タカラジェンヌ初の)日本武道館コンサートで燃え尽き、これ以上、頑張ったら灰になりそうでした。


《退団時は長髪で、最後まで「宝塚の革命児」を貫く。東京・有楽町でのサヨナラパレードには約1万人が集まり、ファンを劇場内に入れても納まらず、社会的ニュースになった。後日、千秋楽の1日を追ったビデオまで販売された》


当時は木村拓哉さんや江口洋介さんの影響か、男性の長髪がはやっていたので、私も男役としての長髪のつもりでした。パレードのときは、束ねた髪に稲穂を下向きに差しました。昭和の堅実なサラリーマンだった父は、私がトップになり偉くなったと勘違いしないよう、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という言葉を繰り返しかけていたので、新たな旅立ちを前に、改めてその言葉を心に刻みました。


《退団時は34歳。5カ月間の充電期間を経て11年、鳴り物入りで芸能界入りを果たす》


充電期間中は海外旅行に行ったり、英会話の勉強をしたりしました。さらに東京に拠点を移し、地下鉄やバスに乗る普通の生活を習慣にし、「もうトップではない」と自覚させました。

私はもともとお芝居は成績が上位だったこともあり、好きでしたが、歌や踊りに才能はないと自分自身、一番分かっていた。だからこそ、今後は舞台ではなく、新たに映像の世界のお芝居に集中したいと思いました。


《新たな世界で生きるため、あえてこれまでの人間関係からは距離を置いた。宝塚というこれまで築いたビルを壊し、「女優」という新たなビルを建てる、との決意だった》


次に進むため、それは間違っていなかったと思います。宝塚の温かい空間では元に戻るから、あえて遮断しました。とはいえ音楽学校時代を含め20年間、宝塚で蓄積し、男役として磨いてきた技術やスキルはそうそう抜けません。映像の世界では、〝全く通用しない自分〟をイヤと言うほど、思い知らされました。

舞台で2500人以上の観客を相手に、最後列まで届く芝居をしてきましたから、感情も動作も大き過ぎた。例えば王宮物の舞台では、驚くお芝居は後ずさりをします。でもそれをテレビカメラの前でやれば、画面から消える。また基本的にアップでの撮影も多いですから、「目力が強過ぎる」とも言われました。常に目線をお客さまに飛ばしていたから、ついテレビカメラを見てしまったり。映像の世界では、まばたき一つにも大きな意味がある、それはそれは繊細な芝居が求められるんです。


《徐々にテレビドラマの仕事が減り、来るのはトーク番組や旅番組でのリポートの仕事になった》


白紙から演技を始めるより、15歳から積み上げてきたものをゼロにする方が、よほど難しい。今まで〝武器〟にしていたスキルがむしろ邪魔になって、一体自分は、何を頑張ってきたのか、分からなくなってしまいました。(聞き手 飯塚友子)

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