《平成7年6月30日、兵庫・宝塚大劇場で安寿ミラさんの後を受け、「エデンの東」「ダンディズム!」で花組トップスターに就任した。相手役はNHKの連続テレビ小説「ぴあの」に主演した純名里沙さん。同年1月17日の阪神大震災で、甚大な被害を受けた劇場は3月末、再開された。しかし時期が時期だけに、通常は華々しいトップお披露目も、空席だらけだった》
まだまだ、がれきの残る街の中で、私はトップに就任しました。震災から半年後の舞台にいろいろなご意見もあったのですが、変わらず公演を続けることが、この街に灯をともし、宝塚の復興を象徴すると思ったんです。
でも舞台から見える2階席は、お客さまが誰もいらっしゃらず、客席はシートの色で真っ赤でした。宝塚大劇場の客席数は2550あって、それを見るのは本当につらかった。それでも下級生(後輩たち)が2階を見上げ、笑顔で歌い踊る姿が、けなげで仕方ありませんでした。
あの寒々とした光景は、その後、私を突き動かす大きな原動力になりました。もちろん震災直後ですから、仕方ない。でも、悔しかった。「私は絶対、動員にはこだわるぞ」と決意しました。どんな状況下でも、「あの人の舞台だったら、何としても足を運びたい」と思わせるスターにならなければ、と身震いする思いでした。
《当時は入団15年目の31歳。花組生え抜きのスターが、満を持してのトップ就任、と周囲には映ったが、その重圧で食べ物が喉を通らなくなった》
当時はただただ無我夢中で、記憶があまりないのです。ただ組のヒエラルキーの一番上に来たものの、この厳しい状況下で陣頭指揮を執るのは、簡単なことではなかった。舞台で一番ハードに動いているのに、拒食症気味になり、体重計に乗ったら8キロ、落ちていました。
でも、倒れる寸前になっても、私は絶対に舞台から逃げ出そうとは思わなかった。15年間の紆余(うよ)曲折があり、さらに被災して大切な人を失い、喪失感が大きかった分、「絶対、生きてやる」という底力に支えられた気がします。
《王子様のような宝塚の伝統的な男役とはひと味違って、現代的な持ち味を生かし、リアルで洗練された男役を追求した》
私は「現実的な男性」を演じたかったんです。ただ各組にはトップのカラーがありますから、一人だけ〝変貌〟しても、悪目立ちします。なのでトップになった今から、やろうと心に決めていました。
指針になったのが、私が宝塚音楽学校入学前、宝塚に抱いていた「疑問」です。私は宝塚の舞台を初めて見たとき、男役の厚化粧に違和感を抱いたほどで、ファン時代がなかった。だからこそトップになって、宝塚に関し苦手だった部分を思い出し、箇条書きにしました。
その〝苦手〟を自分なりに工夫すれば、宝塚に違和感を覚える人にも、受け入れられる男役像を作れるのではないか。もちろん伝統を守りながらですが、宝塚を「見ず嫌い」の人にも届く男役になるには、どうすればいいか。そのヒントが、「宝塚ファンでなかった私」が募らせた思いにありました。
《舞台化粧もナチュラルに。アイシャドーを従来の青ではなく、茶色で陰影を付け、口紅も赤をやめ、自然な男役を追求。その後、みるみる宝塚の枠を超える人気を集めるようになった》
前例のない行動は最初、「異端児」扱いでしたが、認められると「革命児」と呼ばれ、面白がっていただけるようになりましたね。(聞き手 飯塚友子)