この本と出会った

『東電OL殺人事件』佐野眞一著 ノンフィクションライター・水谷竹秀 善悪超えた「人間」に迫る

本書を読み終えたのは、フィリピンの首都マニラの歓楽街にあるカフェだった。興奮を抑えきれなかった私はもう一度、エピローグを読み返した。

ノンフィクションライター・水谷竹秀さん©山田徳春(500G Inc.)
ノンフィクションライター・水谷竹秀さん©山田徳春(500G Inc.)

東京電力に勤めるエリート女性社員が平成9年3月、都内のアパートで絞殺された「東電OL殺人事件」。強盗殺人罪に問われたネパール人男性の被告が、1審で無罪判決を言い渡された場面が、そのページの描写から目に浮かんだ。当初から冤罪(えんざい)の疑いを持っていた佐野眞一さんは、現場となった渋谷区円山町に足しげく通い、捜査線上に浮上した関係者をしらみつぶしに当たり、ネパールまで飛んだ。緻密な取材を重ねた事実の力で、犯人説をぶち破る。ノンフィクションの「ノ」の字も知らなかった私は、その破壊力に完全に打ちのめされていた。

今から15年ほど前のことである。当時、私はフィリピンの邦字紙『日刊まにら新聞』で記者として働く傍ら、「困窮邦人」と呼ばれる男たちの取材に着手していた。日本でうだつの上がらない人生を送り、パブで若い女性たちに入れ揚げ、南国まで追い掛け無一文に。そんな男たちの生き様を本にできないか。そう友人たちに熱く語ると、

「何を寝ぼけたことを…」

とバカにされるのが落ちだった。ところが本書との出会いで、取材の行き詰まりは体当たりで乗り切る術を学び、もがきながらも少しずつ視界が開けてきた。

ネットで開高健ノンフィクション賞の存在を知り、選考委員の一人が佐野さんだった。

駄目元でもいい。応募をしてみると、最終選考に残って佐野さんに原稿が届いただけでなく、受賞までしてしまった。

「ディテールを積み重ねた文章は読者をねじ伏せる」

選評で佐野さんからそんな言葉を頂き、本書で影響を受けた私の思いが伝わったような気がした。贈賞式の日、

「いいもの書いたね」

と声を掛けられ、帰り際には手を差し出された。

そのちょうど1年後、橋下徹・大阪市長(当時)をめぐる「週刊朝日」報道の問題が浮上し、佐野さんは表舞台から姿を消した。確かに批判されるべき騒動ではあるが、それでも佐野さんは、日本のノンフィクション界を牽引(けんいん)し続けた「巨人」であることは間違いない。佐野さんに背中を押されてデビューした私は、複雑な心境だった。

久しぶりにお会いする機会を得たのは3年前。全盛期の迫力こそ感じられなかったが、本書にも登場する、こんな人生哲学が佐野さんの口から出たとき、思わず私の口元がほころんだ。

「人間は白か黒かで判断できるほど生やさしいものではない。だからこそ人間はおもしろいのだ」

そのグレーの部分をノンフィクションではいかに表現するか。それこそが佐野文学の真骨頂であるように思われる。

あの騒動から10年―。そろそろ「佐野節」が読みたい。

【プロフィル】水谷竹秀

みずたに・たけひで 昭和50年、三重県生まれ。上智大外国語学部卒。カメラマンや新聞記者を経てフリー。平成23年、『日本を捨てた男たち』で開高健ノンフィクション賞。著書に『だから、居場所が欲しかった。』など。10年超のフィリピン滞在歴をもとに、「アジアと日本人」について、また事件など世相も幅広く取材している。

『東電OL殺人事件』は、ノンフィクション作家の佐野眞一さんのルポルタージュ。平成9年に起きた東京電力の女性社員が何者かに殺害された事件を追う。12年に新潮社から刊行。(新潮文庫・781円)

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