【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら」(118) ハイドンがもたらす晴朗な空気

南関東の年末年始は連日、ハイドンの音楽のような晴朗な天気にめぐまれた=4日、千葉県御宿町
南関東の年末年始は連日、ハイドンの音楽のような晴朗な天気にめぐまれた=4日、千葉県御宿町

年末年始、本をいっさい読むことなく過ごしていた。二日酔いの朝に体が冷たい水を求めるように、自分が本当に読書を欲しているのかを試してみたのだ。というのも、近年は純粋に自分が読みたいものを読むということがほとんどなく、書評とこのコラムを書くために本を読んでいるという実情に気づいたからだ。つまりは仕事としての読書ばかり。それも読書のひとつのあり方だとは思うが、なんだかあさましく哀れだ。そもそも精神の滋養になった気がしないのである。

《もっぱら書物にたよった知識力とは、なんとなさけない知識力であることか!》(宮下志朗訳)というモンテーニュの言葉も頭の片隅にあった。古代ギリシャ・ローマの古典をたっぷり読んで自己を形成したからこそ言える言葉であろう。そんな男が人間形成に有用と説くのが外国旅行だ。《なによりも、そうした国民の気質や習慣をしっかりと見て、自分の脳みそを、そうした他者の脳みそと擦りあわせて、みがくためなのです。そのためにも、幼年時代のうちから、お子さんを外国に連れ出すといいと思います》(同)

私もその言葉に従い、旅(できればスペインかフランスあたり)に出たいところだが、コロナ禍でそれもかなわない。それで何をしていたか。浴びるようにレコードを聴いていた。休暇中、私が暮らす地方では晴朗な天気が続いた。高く澄んだ青い空を眺めているうちに、ある作曲家の音楽が無性に聴きたくなったのだ。彼の端正で清潔な音楽は、レースのカーテン越しに柔らかな光が差し込んでくる午前中、丁寧に淹(い)れたコーヒーを飲みながら聴くにはもってこいなのだ。

彼とは、ハイドンである。鉄板なのはチェロ協奏曲の第1番と第2番、あとは気分次第で交響曲や弦楽四重奏曲の中からピックアップする。もちろん晴朗な音楽ばかりが続くと飽きてくるので、翳(かげ)りや憂いがほしくなればモーツァルト、聖なる響きを聴きたくなればバッハと変化をもたせている。これまで30年以上も前に入手した4種のカートリッジを使いまわしていたが、さすがに音がくたびれてきた気がしたため、新古品のカートリッジを購入した。これも音楽漬けの日々にひと役買った。思い込みかもしれないが、音がフレッシュになったのだ。

ただ、いくら好きとはいっても、半日も音楽を浴びているとさすがに疲れてくる。そんな折には歩いて海へゆく。その輝きといったら、真冬だというのにサングラスが欲しくなるくらいだ。そんな愉悦の日々を過ごすうちに、無性に新鮮な言葉を欲している自分に気づいた。

素晴らしい詩は精神を飛翔させる

入手しただけで読んでいない本が部屋に山積みにされている。その中に「私を読んで」と訴えかけてくる本があった。詩人の田口犬男さんが12年の沈黙を破って発表した詩集『ハイドンな朝』(ナナロク社)である。奥付を確認すると2021年1月11日の発行となっている。まる1年間、他の本の重さに耐えながら、私に読まれるのを待っていたわけだ。申し訳なく思う。まず、タイトルにもなっている「ハイドンな朝」を紹介しよう。

《ハイドンはいつだって御機嫌だ/スプーンに映された噓を歪めて真実に変え/沸き立つコーヒーには/シテール島を浮かべて澄ましている/向かい風を追い風に引き合わせ/綿毛に宿る光で魂をくすぐり/ふり返ると--/すでに跡形もなく消え失せている》

洋魂派の詩人、西脇順三郎の魂と相通ずるものを感じる。鮮やかにイメージを喚起するこの詩によって、ハイドンの晴朗な音楽をたっぷりと浴びていた私の精神は、穏やかな陽光をキラキラと反射させている地中海へと旅立った。素晴らしい詩と遭遇すれば、人間の精神は、飛行機や船に乗らずとも地中海へ、ロケットに乗らずとも宇宙へと飛翔し、自分の内側に深く潜行し、さらには過去・現在・未来を自在に往還するものなのだ。

もうひとつ、センチメンタルな私のもっとも気に入った「哀しみのトルソー」の前半を紹介しておきたい。

《哀しみは/腕を捥(も)がれたトルソーのようだ/喪(うしな)われた両腕に/抱かれていたものが/かつてあったのだ/まるで/ラファエロの聖母子のように/一心同体だったものが/それは喪われてしまったように/見える/噓のように美しい幻のように/それは消えてしまったように/見える/記憶に潰(つい)えた城のように(以下略)》

哀しく美しいイメージに心を奪われて陶然とする。この詩から響いてくる音楽は、モーツァルトのクラリネット五重奏曲だ。

進行する良貨の駆逐

言わずもがなではあるが、紹介した詩と、新聞や雑誌、インターネット上の文章は、同じ日本語で紡がれているのである。その幅たるや、反吐(へど)から宝石までだ。これを「多様性」と肯定的にとらえることができないわけでもないが、「悪貨は良貨を駆逐する」の言葉の通り、日本語への感謝、愛、責任などが感じられない文章が、宝石のような文章をどんどん駆逐しているように感じられる。もちろん誰もが、本音の意見を自由に発信できる社会は大切であり、絶対に守らなければならないと考えるが、この社会と日本語がどう変化してゆくのか、とても気がかりだ。

そして、いまさらながらにパリで活動したルーマニア出身の思想家、シオランの箴言(しんげん)をかみしめている。《私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外の何ものでもない》(出口裕弘訳)。この言葉から流れ出すのは決まってバッハの平均律クラヴィーア曲集だ。

最後は『ハイドンな朝』収載の作品で締めておこう。「ユートピア便り」の第1連だ。《血沸き肉躍るという言葉は/似つかわしくない/血は鎮まり 肉は安らいでいる/ハイドンを聴きながら繁茂する植物みたいに》

ああ、ハイドンのように文章を書いてゆきたいが、果たして…。(文化部 桑原聡)