話の肖像画

真矢ミキ(7)「ヤンミキ」コンビで花組黄金時代

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《「劣等生」とはいえ、生来の華と研究熱心さが認められるようになり、宝塚入団3年目となる昭和58年、花組公演「メイフラワー」の新人公演で主役に。以降はチャンスが巡ってくるようになった》


当時の花組はトップスターが高汐巴(たかしお・ともえ)さん、2番手が大浦みずきさんで、ともに大人っぽいお役をされていました。そういう本役さんの役を背伸びして研究したから、鍛えられたんです。

背中に寂しさをたたえ、去っていく渋い大人の男や、ジゴロの役を演じなければならなかった。でも当時の私はまだ19歳。ジゴロの意味すら、よく分かっていません。お稽古場で、演出の先生に「ジゴロって…何ですか?」って聞いたら、先生が「世の中には、こういう職業もあってなぁ」と一から懇切丁寧に説明してくださいました。


《花組は戦後、越路吹雪らを輩出した男役の宝庫。後に「ダンスの花組」とたたえられ、当時は真矢さんの1年先輩に安寿(あんじゅ)ミラさんもおり、有望な若手男役がひしめいていた》


60年に新人公演で2作連続(「愛あれば命は永遠に」「テンダー・グリーン」)で主役がつき、「ついに軌道に乗った」と思ったら、その次の作品は何と後輩が主役で、私が3番手。「私の宝塚人生、終わった…」と落ち込みました。後に安寿さんもぐんぐん力をつけ、若手は誰が出てくるか分からない状況に。ただ私は、浮き沈みはあっても、目指すべきところはハッキリ見えていました。客席からは大地真央さんを見て、稽古場では高汐さんの背中を見て、「いつか、こんな自然な男役になりたい」と思っていました。


《飛躍につながったのが61年、バウホール(兵庫・宝塚大劇場に隣接する小劇場)公演のコメディー「グッバイ・ペパーミントナイト!」。現代ニューヨークを舞台に、ハーバード大出身の青年(真矢)が、暗黒街のボス(安寿)相手に奮闘する物語。安寿さんとのダブル主演で、その息の合ったコンビと、コメディエンヌぶりが評判になった。以後、2人は「ヤン(安寿さんの愛称)ミキ」と並び称され、本公演でも若手スターを象徴するコンビとして、同等の扱いを受けるようになった》


コンビでしたが正直、安寿さんに私、途中で抜かされました。悔しくなかったといえば噓だと思います。でも先輩ながら、互いにライバルのような形で競い合ったからこそ4、5番手だった私たちが2、3番手に上がれた。2人で勝ち取った地位だったと思います。安寿さんには、言葉にならないほど感謝しています。


《平成2年には「ベルサイユのばら」にオスカル役で出演するなど、真矢さんは着実にスターとしての歩みを進める。4年に安寿さんがトップスターに就任して以降も、「ヤンミキ」コンビは健在。2番手ながら、安寿さんが海外公演出演中は、代役で本公演に主演するなど、花組黄金時代を築いた》


でも安寿さんも私も、決して強靱(きょうじん)なメンタルの持ち主ではなかったです。私たちが2人でのし上がった分、頑張ってこられた先輩が夢を断念し、辞められる背中も、つらさも見てきました。宝塚は夢のあるすてきな組織で、私も育てていただき、心から感謝していますが、トップになるまでは悲喜こもごも。トップになると、さすがに下に抜かされはしませんが、「トップになった、万歳!」とは単純に言えないです。

なぜならトップになれば、組を引っ張る力と、劇場を満席にする観客動員の責任が、重くのしかかるからです。(聞き手 飯塚友子)

(8)に続く

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