話の肖像画

真矢ミキ(6) 「宝塚を辞めたい」に笑った母の胸中…

「劣等生」だったが、入団3年目から新人公演で抜擢されるようになった(本人提供)
「劣等生」だったが、入団3年目から新人公演で抜擢されるようになった(本人提供)

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《自らを「劣等生だった」と振り返る。謙遜もあるが、実際、宝塚音楽学校での成績は39人中37番だった》


当時、宝塚歌劇団で活躍されていたスターは音楽学校時代、優等生か、成績が悪いか、割と両極でした。私は芸事とは無縁の家庭で育ちましたし、あまり順位を気にしないようにはしていたのですが、やはりショックですよ。37番という数字は。

その順位が出てからは、どこを向いても「37」という数字に見え、お稽古場から見える青々とした山さえ、大文字焼きのように「37」が浮かんできました。自分としては、すごく頑張っていたつもりだったんです。


《昭和56年、宝塚歌劇団に入団。花組公演「宝塚春の踊り」「ファースト・ラブ」で初舞台を踏む。「真矢みき(当時)」という芸名は、母の雪子さんが本名から、考えてくれた》


現役の先輩方の芸名や、あまりにも有名な退団者の方と似てもいけません。難し過ぎる漢字もよくないですし、音楽学校の先生方に、芸名候補を出しては何度も突っ返されました。

困り果てていたとき、母から寮に電話があり、「マヤミキってどう?」って提案してくれたんです。実家の私の部屋にある破魔矢を見て、「真っすぐな心を持って、矢のように進んでほしい、と思ったの」と。

さんざん迷った芸名ですが、この母親らしい言葉に背中を押され、決めました。確かに私は子供の頃から破魔矢が好きで、初詣で必ずねだっていました。

生まれた日、雪の降る美しい季節だったからと付けられた「美季(本名)」といい、この「真矢」といい、単純ながらも気持ちのこもった名前を、母に付けてもらったと思います。


《宝塚恒例のラインダンスから、俳優としての一歩を踏み出す。花組に配属されるが、成績が振るわないため、同期が次々と抜擢(ばってき)を受ける中、全く活躍の場がなく、寂しさを募らせた》


同期が最下級生で全国ツアーに参加させてもらっている中、自分には声がかからない。研究好きで、暇さえあれば宝塚の舞台を見ていた私も、さすがに同期が活躍している舞台を、見にはいけませんでした。

大地真央さんや高汐巴(たかしお・ともえ)さん(元花組トップスター)に憧れ、自分としては男役としてやりたい夢が、ワーッと壮大に広がっているのに、そのスタート地点にすら立てない、現実とのギャップに苦しみました。若手がアピールできる新人公演も、ほぼ成績順で役が付くから、お呼びでない。初舞台は17歳で幼かったこともあって、ただただ劣等感が募りました。


《18歳になり、退団を本気で考える。真矢さんの宝塚入りを願い、応援し続けてくれた母に、意を決して電話した》


まだ成人していないし、人生やり直せる、と思ったんです。恐る恐る母に、「大変、申し訳ないんだけれど、宝塚を辞めたいです」って言ったら、まず笑われた。「どっちでもいいけれどね。ただ私、親戚にこの間、ごあいさつとしてハンカチ作って送ったばかりなの。『真矢みき』って名前と、スミレの花の絵を添えて。本当に恥ずかしいから、せめて2、3年はやりなさい」って。

母は笑っているけれど、かなり怒っている、と思いました。その母の言葉で、退団を踏みとどまったようなものです。そして翌58年、「メイフラワー」の新人公演でまさかの主役に大抜擢していただいたんです。

「捨てる神あれば拾う神あり」と聞きますが、まさに「拾う神」に急に出くわし、抱きしめられた気がしました。(聞き手 飯塚友子)

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