畿内か九州か-。古代史最大の謎として江戸時代から続く邪馬台国(やまたいこく)の所在地論争。倭国(日本)を治めた女王・卑弥呼(ひみこ)は北部九州と吉備(岡山)の勢力が主導して「話し合い」によって擁立し、首都を纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)に置いたとの説を、纒向学研究センター(同市)の寺沢薫所長が打ち出している。「邪馬台国=纒向遺跡」としながらも、九州などの関与に言及。遺跡研究から浮かび上がった倭国は、畿内VS九州とは異なる〝第三の視点〟であり、大陸の脅威を見据えて難局を乗り切ろうとした国家の姿だった。
「倭国乱れ、何年も攻め合った。そこで女子を共立して王とした。名は卑弥呼という」。中国の歴史書・魏志(ぎし)倭人伝は卑弥呼誕生の経緯をこう記す。2世紀末、九州から畿内にかけて大規模な戦乱があり、各地の王が卑弥呼を擁立したとされている。
しかし、「倭国乱」の記述について寺沢さんは、西日本各地の遺跡を精査し「2世紀後半~末に大規模な戦乱の痕跡はみられない」と指摘する。弥生時代、矢じりや剣が突き刺さった人骨などが発掘されれば、戦乱の跡と推測される。北部九州を中心に弥生時代前期にはこうした人骨が多数見つかっているが、2世紀後半に西日本一帯で急増した状況はみられないという。
中国王朝の衰退影響
ただし、2世紀後半に西日本一帯の勢力図が大きく変わったことは間違いない。弥生時代に大陸との交流を通じて発展した北部九州は、「一強時代」を築いたが、瀬戸内、山陰、畿内が台頭した。その理由を寺沢さんは「北部九州が、後ろ盾の中国・後漢王朝の衰退で勢いを失ったことが大きい」とし、倭国内の不安定化につながったとみる。