《昭和54年、タカラジェンヌを育成する2年制の兵庫・宝塚音楽学校に入学。真矢さんは67期生で、「美人の期」として知られる。同期は黒木瞳さん(後の月組トップ娘役)や涼風真世さん(後の月組トップスター)で、今も女優として活躍するスターの卵がひしめいていた》
私はそれまでの15年間の人生で、まともな成功体験がなかったんです。いつも「あと一歩」の所で手が届かず、家族で富士山登山に行っても登頂間際、体調不良で家族の下山を待っていたような子でした。だから(難関の)音楽学校合格は本当にうれしかった。校庭に張り出された自分の名前を、何度も何度も見上げ、目に焼き付けていたら、入学説明会に遅れそうになったほどです。
当時、家族は大阪から千葉へ引っ越したばかりでしたから、私は入学を機に初めて親元を離れ寮生活を送ることになりました。それまで友達の家にすら泊まったことがなかったので、入寮の日、母が心配そうな顔で私を見送った姿を思い出します。
《3人部屋での寮生活がスタート。芸事はもちろん、厳しい規律や掃除など、宝塚の生徒としての基本を学んだ》
私は15歳で同期の中では最年少でした。予科生(1年)時代は、同期が横で本科生(2年)に怒られているだけでも、涙がこぼれてしまうような子供でしたから、先輩方も気を使ってくださったのでしょう。私自身はほとんど怒られた記憶がありません。
予科生は毎朝7時から約1時間半かけ、音楽学校の掃除をします。私の分担は、主に声楽やピアノの授業に使われる5番教室。黒木さんらと3人一組で1年間、粘着テープや綿棒なども駆使し、ピカピカに磨き上げました。午前6時起床の毎日は眠気との闘いでしたが、3階の5番教室は見晴らしがよく、窓をふいていると木々の緑が目に染み、野鳥も間近に見られました。トンビを見かけるときもあって、制限の多い生活の中、大空を自由に飛ぶ姿に憧れました。
《中学時代、宝塚コドモアテネに通ったとはいえ、週1回、声楽や日本舞踊を習っただけ。入学後、授業についていくのに苦労した》
「演劇」の授業など、同期も一から始める科目はいいのですが、ピアノは子供の頃から習っている人には逆立ちしたってかないません。振り返ると私、本当にどうかしていたと思うんですが、授業をサボるようになったんです。特に本科生になって生活も解放されると、ピアノの授業になると毎回、違う指に包帯を巻いて現れ、「今日はお休みします」と見え透いた噓をつきました。
《しかし、怠けていたわけではない。連日、隣接する宝塚大劇場に通って熱心に宝塚を〝研究〟していたのだ》
私はまともなファン時代を送らないまま、音楽学校に入学してしまいました。だからこそ予科時代、目覚めてしまったんです。大地真央さんに!
忘れもしない月組公演「春愁(しゅんしゅう)の記」「ラ・ベルたからづか」を見にいったら、ある男役さんをずっと追っている自分に気づきました。特にショーの「ディガ・ディガ・ドゥ」の場面、銀橋(エプロンステージ)に出てきた真央さんが、先輩男役に合わせスイングし、客席に視線を投げかけ、指をさし、「ドゥッ、ドゥッ」と合いの手を入れる格好良さに、すっかりハートを射ぬかれ、終演後は立ち上がれないくらいの放心状態に(笑)。今まで全く理解できなかった男役に魅了され、髪をバッサリ切り、男役になる決意をしました。
あの日から反動が来たかのように私は熱烈な「宝塚ファン」になり、授業をサボって先輩方の舞台を食い入るように見続けました。(聞き手 飯塚友子)