浅草物語

萩本欽一(下)街の明かりが消えた修業時代 コント55号で原点回帰も

東八郎ら先輩の芸を熱っぽく語る萩本欽一(酒巻俊介撮影)
東八郎ら先輩の芸を熱っぽく語る萩本欽一(酒巻俊介撮影)

東京・浅草時代の萩本欽一の写真に、当時の街並みが写った一枚がある。屋上でくつろぐ萩本の後ろに映画「用心棒」(黒澤明監督)の看板が見え、浅草東宝劇場の前には人の姿も多い。「用心棒」は昭和36年公開で、萩本が浅草東洋劇場の門をたたいてから2年後だ。しかし、この頃すでに浅草には斜陽が忍び寄っていた。

浅草修業時代のスナップ。萩本欽一の後ろに映画「用心棒」の看板が見える
浅草修業時代のスナップ。萩本欽一の後ろに映画「用心棒」の看板が見える

「入って3年後に、人があっという間にいなくなりました。だってね、明かりがついてないんだもの。新宿はピカピカついてるのに浅草は真っ暗。劇場も次々になくなってしまった」

先輩は、こう説明した。

「お前にはわかんないだろうけど、あそこに吉原があったんだよ。あれが廃止になっちまった。あれと映画がセットだったんだ」

33年4月に売春防止法の罰則が施行され、江戸時代から遊郭として栄えてきた吉原の灯が消えた。浅草の歓楽街と吉原との人の流れが切れ、さらに39年の東京オリンピックを前に、コメディアンも活躍したストリップ劇場が徹底した取り締まりに遭った。浅草フランス座も五輪直前に一度看板を下ろしている。

34年には上皇ご夫妻のご成婚があり、テレビの普及が加速。娯楽の主役もテレビへと移りつつあった。

伝統の素人いじり

萩本は41年に坂上二郎とコント55号を結成し、42年ごろからは活動の中心をテレビに移している。浅草にいた期間は約7年だった。

「欽ちゃんって東洋劇場に若い頃いたよね、と言ってくれるお客さんに会ったことがない。だから記憶に残したことは一度もなかったんだね」。そう謙虚に振り返るが、萩本の芸は紛れもなく浅草仕込みだ。

「ほとんど師匠の東八郎さんのものまねなんですよ」という素人いじり。たとえば東洋劇場のコント「痴漢講座」では、舞台に踊り子を4人上げ、夜道をトボトボ歩けば痴漢に遭わないと教える。しかし踊り子がどう歩いても東は「おまえ、トボトボじゃない」などと突っ込み、痴漢役の萩本は『私が痴漢ですという顔で出てくる痴漢がいるか』などと突っ込まれる。

「何にもできない人がこんなに受けまくる。不思議な世界でしたよ」

この素人いじりは、渥美清が得意とした客いじりに連なる浅草の伝統で、坂上に萩本がしつこく突っ込む55号、さらに「欽ちゃんのドンとやってみよう!」などで見せた芸風に直結している。両腕を横に振る「欽ちゃん走り」も東直伝だ。

55号の人気が頂点を過ぎた48年、2人は公開収録という形で原点の浅草に帰ってくる。浅草松竹演芸場を舞台にした番組「コント55号のなんでそうなるの?」だ。コントの合間にはストリップショーも挟んだ。必然的に客はオジサンばかり。もちろん、テレビでショー部分は放送されない。

「一番笑わないお客さんを入れた方が、いいコントができるんです。われわれはお客さんに合わせて反応するので、子供ならしゃべるよりコケた方が受ける。テレビはすぐ若い人を客に入れるけど、すると軽い笑いで十分になる。しかし受けないと、こんな女子供相手のギャグじゃだめだ、とその場で変えていく。55号の味が出るんです」

浅草の芸を、見事にテレビに落とし込んでみせた。

そしていま…

「若い者には、とりあえず浅草行けと言うんだけど、なかなか行くやつは今はいないですね」

若手の修業の場としての浅草は様変わりした。東洋劇場は43年に閉館し、何度かの変遷を経て、現在は同じ場所で1階に「浅草演芸ホール」、4階に「浅草東洋館」が開業。連日寄席や漫才、コントをプロの芸人たちが披露している。

開演直後の浅草東洋館の舞台=令和3年12月10日、台東区浅草(鵜野光博撮影)
開演直後の浅草東洋館の舞台=令和3年12月10日、台東区浅草(鵜野光博撮影)

新型コロナウイルスの感染拡大が収束状態にあった昨年12月、週末の浅草は人でにぎわい、東洋館には「おぼん・こぼん」や「ナイツ」といった人気芸人を見るための行列もできた。ただ、平日の昼間は閑散とすることもある。取材で訪ねた12月10日、正午のブザーで開幕した舞台には、6人の客を笑わせようと奮闘する若手芸人がいた。

「浅草という土地が私を育ててくれた。だってお客が少なくても頑張れるし。3人しかいないこともあったのよ」。そう振り返る萩本の言葉は、時代を超えた後進へのエールでもある。=敬称略(鵜野光博)

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