浅草物語

萩本欽一(上)育ててもらった〝笑いの原点〟 エノケンにあこがれ見習いに

浅草時代の思い出を語る萩本欽一(酒巻俊介撮影)
浅草時代の思い出を語る萩本欽一(酒巻俊介撮影)

浅草の雷門の向こうに、さまざまな物語がある。

「浅草という土地が私を育ててくれた。こんなに長いことテレビでお仕事できたのは、浅草のおかげなんですよ」

そう語るのは、かつて「視聴率100%男」と呼ばれたタレント、萩本欽一(80)だ。コント55号で組んだ坂上二郎とは、東京・浅草の劇場で出会った。「欽ちゃんのドンとやってみよう!」などの番組で見せた自在な「素人いじり」芸も、元は浅草の先輩芸人から受け継いだものだ。

ただ、浅草当時はたった3人の客を相手に舞台に上ったこともあったという。

「今、浅草を語れるのは、こんなににぎやかになって、昔の浅草に戻りつつあると思ったから。最悪の浅草でつらい思いもした。あの時代にインタビューされたら、半分ぐらい噓を言わないといけなかったね」

東京の大衆芸能を代表する街として栄えてきた浅草。萩本は、その昭和の盛衰を肌で知る世代だった。

お金持ちになりかった

「浅草東洋劇場」に見習いで入ったのは昭和34年、18歳のときだった。生まれは浅草に近い旧南稲荷町。

「正月は親に担がれて浅草を通ったけれど、子供心に何とも言えない、正月を迎えた気がして、たまらなかった」と原風景を語る。

「正月に必ず行く食堂で必ず鍋焼きうどんを食べてね。おばあちゃんがいて、あい欽ちゃんいらっしゃい。お煎餅出してくれて。ちょっと時間がかかるからこれ食べて待とうねって。その店もなくなったなあ」

カメラ店を営んでいた父親が事業で失敗し、中学、高校時代はひどく貧乏だった。「お金持ちになりたかった」という萩本は、「この仕事を選んだ理由は、二十代で家が建つのは芸能界しかないと思ったから」と明かす。ただ、鏡の中の自分は二枚目スターになれると思えなかった。そこで、映画の脇役などで活躍するコメディアンを目指すことにした。あこがれたのは、エノケン(榎本健一)だ。

入門当時の萩本を、東洋興業会長の松倉久幸(86)は覚えているという。

「本当に坊やだったよ。欽坊と呼ばれて、先輩の使いっ走りのようなことをやらされていたね」

東洋興業の松倉久幸会長=令和3年12月11日、台東区浅草(鵜野光博撮影)
東洋興業の松倉久幸会長=令和3年12月11日、台東区浅草(鵜野光博撮影)

東洋劇場があったのは、浅草公園六区。明治政府は都市公園の一つとして浅草寺の境内を浅草公園に整備し、一~六区のうち六区に歓楽街を集約させた。随筆の名手でもあった明治41年生まれの女優、沢村貞子の「私の浅草」には、「六区の映画館」「六区の活動小屋」がしばしば顔を出す。

戦争で焼け野原となった浅草で、松倉の父親の宇七は昭和22年、ストリップ劇場「ロック座」を開き、26年には「浅草フランス座」をオープンさせた。幕あいの軽演劇から渥美清、東(あずま)八郎らコメディアンが育ち、映画やテレビへと巣立っていく。萩本、ビートたけしもその系譜に連なる。

ただ、萩本はたまたま両親が松倉の親戚が営むアパートに住み、さらに知人の演出家の紹介で、宇七が開いたばかりの東洋劇場に来たにすぎなかった。

「後で気づいたんだよ。テレビに出るコメディアンはみんなここだって。笑いの東大に入ったって感じだね」と萩本は笑う。

セリフを飛ばし

34年の六区は、松倉によると、映画館やストリップ劇場が史上最高の36館を数え、まさに最盛期だった。

初舞台は、意外に早くやってきた。

修行時代の萩本欽一
修行時代の萩本欽一

『欽坊! おまえ後ろからくっついて出ていけ』と言われてね。村人役で、それが受けて。用事がないのに後ろに突っ立ってる珍しいやつがいるなあって」

大失敗もした。

「セリフ3つもらって最初は言えたんだけど、次がね、あがっちゃって飛んじゃった」。先輩は「おまえ、今こう言いたいんだろ?」とアドリブでカバーし、客も笑った。「俺何もしゃべってなくて。何で笑ってるんだか、もうよく分からなかった」

次の日から午前7時に劇場に行き、舞台の上で叫んだ。「萩本欽一だ! 俺は萩本欽一だ!」

なんとか度胸をつけなきゃ-。後にテレビを席巻する「欽ちゃん」は、まだ胎動の時期にあった。=敬称略(鵜野光博)

はぎもと・きんいち タレント、コメディアン。昭和16年、東京都台東区生まれ。浅草で修行後、41年に坂上二郎とコント55号結成。代表的番組に「コント55号のなんでそうなるの?」「欽ちゃんのドンとやってみよう!」「欽ドン!良い子悪い子普通の子」「24時間テレビ・愛は地球を救う」「全日本仮装大賞」など多数。長野冬季五輪閉会式の総合司会も務めた。

物語の舞台、そして下町の郷愁の地でもある浅草。そこで生きる人と文化を、掘り下げます。

>【浅草物語】 萩本欽一(下)街の明かりが消えた修業時代 コント55号で原点回帰も

会員限定記事会員サービス詳細