「大政奉還」。源頼朝が開いた鎌倉幕府以来、約700年にわたる武家政権の終焉(しゅうえん)を告げるこの政治決断は慶応3(1867)年10月14日(旧暦)、「最後の将軍」の徳川慶喜によって朝廷に上表され、翌日、聴許された。これに大打撃を受けたのが、「慶喜と徳川幕府は天意を無視して政権に居座っている」として武力での打倒を目指していた討幕派─大久保利通と西郷隆盛をはじめとする薩摩藩「激派」(親幕府派は彼らをそう呼んだ)、そして薩摩藩と同盟を結び、当時の中央政界である朝廷への復帰を目指す長州藩だった。
薩摩藩には大政奉還の前日の13日付、長州藩には14日付で「討幕の密勅」がもたらされていた。形式や当時の状況を検討し、「偽勅ではないか」と指摘する研究者も少なくない。しかし、明治維新史の第一人者だった原口清が「偽勅と断定することには反対であり、逆に、真勅とまでは断定しないが、その可能性はかなりつよい」(「王政復古小考」)と論じていることは特筆されるだろう。
大政奉還によって討幕派は肩透かしをくらっただけでなく、密勅の実行が「無期延期」となったため、戦略を抜本的に見直さざるをえなくなった。約2カ月後の「王政復古の大号令」は、長州藩が別の歴史的文脈で使った言葉を借りれば、その「失機改図」の延長線上にあった。