話の肖像画

輪島功一(25)耳ふさいだ「引退テンカウント」

足かけ10年に及んだ現役生活に別れを告げる引退式では、恒例の「テンカウント」を聞くのが嫌で耳をふさいだ =昭和53年11月15日、東京・水道橋の後楽園ホール
足かけ10年に及んだ現役生活に別れを告げる引退式では、恒例の「テンカウント」を聞くのが嫌で耳をふさいだ =昭和53年11月15日、東京・水道橋の後楽園ホール

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《世界J・ミドル級の王座に三たび就いてから3カ月後の昭和51年5月18日、通算7度目のタイトル防衛を目指してスペインのホセ・デュラン選手を東京・両国の日大講堂に迎え撃った》


韓国の柳済斗選手に雪辱して王座に復帰した後、王座のまま引退することを勧める人も結構いました。「33歳だし、もう十分だろう」と。しかし、その選択肢は私にはなかった。カネや名誉よりも、その前にボクシングが好きでかわいくてしようがないからやっているわけですから。ただ、この試合、燃えるものがなかった。

デュラン選手は、当初決まっていた挑戦者がけがをしたために急遽(きゅうきょ)変更された、いわば「代理挑戦者」でした。また、前にも話しましたが、WBCが私から剝奪したタイトルの王座決定戦で、わが好敵手、ミゲール・デ・オリベイラ選手に判定負けしていた。私はオリベイラ選手とは1勝1引き分け。順当なら負けるわけないと慢心してしまったのです。

さらにこの試合では、年齢からくる衰えを痛感させられました。以前なら紙一重でかわせたパンチを受けてしまう。仮に受けても瞬間的反応で威力を半減できたのに、それもできない。結果は14回KO負けでした。


《この敗戦から1年以上たった52年6月7日、現役最後の試合となった13度目の世界戦に、挑戦者として東京・九段下の日本武道館で臨んだ》


ジムの三迫仁志会長には「これ以上続けたら、本当に死んでしまうぞ」と言われたのですが、無理を言ってもう1試合やらせてもらいました。本当に強い選手に負けたのなら諦めもついたのですが、デュラン選手には失礼ながら「この程度の選手に自分が計3年3カ月死守した栄光のタイトルを預けっ放しにはできない」という強い思いが私をリングに押し上げました。

ただその後、王者がコロコロ変わった。デュラン選手は初防衛に失敗。新王者も防衛できず、ニカラグアのエディ・ガソ選手が王座に就いていました。

34歳1カ月で迎えたガソ戦は、初回から足がガクガクして動かなかった。オーバーワークでもないのに、ここぞの場面で肝心の一歩が出ない。私の変則でトリッキーなボクシングを支えていたのはフットワークでしたので、これでは勝負になりませんでした。