モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(117)老後の心配が生をひどく乱す

勝浦灯台から見る落日=11日、千葉県勝浦市(桑原聡撮影)
勝浦灯台から見る落日=11日、千葉県勝浦市(桑原聡撮影)

令和3年も間もなく終わる。来年は前期高齢者となり、会社員人生にも幕が下ろされる。いわば人生のターニングポイントを間近に控えたこのごろ、落日を見にゆくことが多くなった。

主なポイントは4カ所ある。自宅のある千葉県御宿町の月の沙漠、勝浦市の勝浦灯台、同市の名所「おせんころがし」と呼ばれる断崖の中腹を通る伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)、館山市の北条海岸である。北条海岸は富士山のおまけもつくが、ちょっと遠い。

かつてのベタな青春ドラマのように、落日に向かって「バカヤロー」と叫ぶわけでも、涙を流すわけでもない。線香花火の火玉のような太陽が姿を消すように、宇宙の一部であり、そのリズムの中で生かされている自分も、遅かれ早かれこの世界から社会的にも肉体的にも姿を消すという当たり前のことを受け入れようとしているのだと思う。

モンテーニュにしても、死をどう受け入れるかは最大のテーマであり、『随想録』の中でもたびたび取り上げている。当初は、どこで死が待ち受けているかわからないので、ふだんからさまざまな場面で死を意識して生きるべき、と書いている。この時のモンテーニュにとって、死は概念でしかなかった。ところが、血で血を洗う宗教戦争と度重なるペストの流行を経験し、さらには激痛をもたらす結石を抱えて生きた彼は、晩年になって考えを大きく変えてこう記す。《もし静かに落ちついて生きることができたのなら、同様に静かに落ちついて死ぬことができるであろう》(第3巻第12章「人相について」)。つまり死を心配することで生を乱すのはばかげており、死に対しては無頓着であるべきだというのである。そして彼は59歳で亡くなる。

私もそうありたいと思うものの、現代日本では死よりもやっかいな問題が浮上している。長くなりすぎた老後だ。モンテーニュは小さいながらも領地と領民を抱えた封建領主だった。彼のような経済基盤を持たない私たち庶民は、ゴールの見えない老後に対して無頓着でいられるはずがない。現実はそれを心配するあまり、多くの人が生をひどく乱しているように感じる。

しばしば発生する中高年のキレたような犯罪の根っこは、このあたりにあるような気がしてならない。若いころから貯蓄と投資を始めて資産を形成することも必要だろうが、誰もができるとはかぎらない。長い老後対策は、安全保障とならぶ政治の重要課題だ。

「大地の歌」が鳴り始める

ところで、落日を眺めていると、きまって頭のなかで鳴り始める音楽がある。グスタフ・マーラー(1860~1911年)の「大地の歌」の第6楽章だ。

「大地の歌」はマーラーが最晩年に作曲した、アルト(またはバリトン)とテノールの独唱を伴う交響曲だ。「大地の哀愁に寄せる酒の歌」「秋に寂しき者」「青春について」「美について」「春に酔える者」「告別」の6楽章からなる。管弦楽伴奏付きの連作歌曲といったほうがよいかもしれない。詩人のハンス・ベートゲが中国唐代の詩(李白、孟浩然、王維ら)を編集した『中国の笛』に霊感を得て手掛けられた。

録音は数え切れぬほどあるが、私がもっぱらターンテーブルに載せるのは、レナード・バーンスタインがウィーン・フィルを振った盤だ。第6楽章の「告別」は、バリトンのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが歌っている。

タイトルからも想像できるように、人生に別れを告げようとする厭世(えんせい)的な楽曲だ。こんなイメージだ。空はオレンジから紫、そして藍へとその色を精妙に変化させてゆき、ついには太陽が姿を隠す。ところが次の瞬間に、柔らかな光がふわっと差しこむ…。「オペラ対訳プロジェクト」というサイトの訳を紹介しておこう。

《私の孤独なこころは、安らぎを求めている。/ふるさとへと帰るのだ…私の居場所へと。/決して遠くに行くわけではない。/心おだやかに、その時を待とう!/この、いとしき大地に、見わたす限り、/春の花が咲き乱れ、新緑に燃える時を!/どこまでも、とこしえに青き光、遥か彼方まで!/とこしえに…とこしえに…!》

バブル前夜の素晴らしいCM

およそ30分の「告別」が終わると、気分転換に第3楽章の「青春について」を聴くことが多い。美しい庭園のある家に着飾って集まった若者たちが、酒を飲みながらおしゃべりをするという歌詞を、中国風の旋律に乗ってテノールのジェームズ・キングが軽やかに歌う。演奏時間は4分弱。

これを聴くと、自分の青春時代とともに、あるテレビCMと、活気のあったころの日本の姿がよみがえってくる。そして、あるウイスキーを飲みたくなる。サントリーローヤルである。

1980年代前半、詩人のランボー、建築家のガウディ、作曲家のマーラー、昆虫学者のファーブルをモチーフに制作されたサントリーローヤルの4編のテレビCMは、芸術性において史上最高レベルにあったように思う。

マーラー編は「青春について」を使用し、ヨーロッパの屋敷の映像と鳥獣戯画風の墨絵の動画が融合した作品だった。《「やがて私の時代がくる」と予言し、人間を追い続けたマーラーに、20世紀がうなずき始めたようだ》というナレーションが印象的だった。このCMでマーラーを知った日本人は多かったはずだ。

ランボー編は、火吹き男などのフリークスとともに砂漠を放浪するランボーを活写していた。バックには中東風の音楽。ナレーションは《その詩人は底知れぬ渇きを抱えて、放浪を繰り返した…永遠の詩人ランボー、あんな男、ちょっといない》。まるでフェリーニの映画のようだった。登場するフリークスたちは、米国のロックバンド、ドアーズのアルバム「まぼろしの世界」のジャケット写真にインスパイアされたものだろう。ドアーズのボーカルで詩人のジム・モリソンがランボーに傾倒していたことを踏まえていたはずだ。

ガウディ編は、奇抜な建築群を背景に、ガウディとおぼしき男性と妖精たちが繰り広げる幻想的な映像だった。このCMで初めてガウディを知った私は、すぐさまバルセロナに飛んだ。

サントリーローヤルのCMは、20代の私が知らない世界の扉を、いくつも開いてくれた。感謝してもしきれない。こんなCMが日本で再び制作される時代は来るのだろうか。いや、落日は昇日となる。そんな時代を再びつくり出さなければいけない。

落日をきっかけに始まった連想はついに収拾がつかなくなってしまった。これも私らしい。それでは読者の皆さま、よいお年を。

※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)による。