旧暦ながら154年前の今月─師走の初旬、新政府の成立宣言「王政復古の大号令」が発せられた。政局の中心だった京都御所を兵で固める一方、大政奉還を断行した15代将軍、徳川慶喜を筆頭とする旧幕府勢力を排除したこの一挙以降、約1カ月にわたり、薩摩・長州両藩が中心となるのか、それとも旧幕府側が主導権を取り戻すのか、「新政府のかたち」は予断を許さない状況が続く。史上の政治劇と心理劇が繰り広げられたこの「最も長い年末年始」を追うにあたり、慶喜以外の立役者がそろい踏みし、舞台となった御殿の名にちなんで「小御所会議」と呼ばれた大号令初日の一幕から説き起こしてゆきたい。(編集委員 関厚夫)
「徳川氏の弊(悪)政、ほとんど違勅ともいうべき条々少なからず。いま内府(内大臣=徳川慶喜)は政権を返し奉るといえども、その真意の正邪については判別しがたく、実績をもって責譲(罪過による責任の追及)すべきである」
慶応3(1867)年師走9日夜、京都御所。新政権の中枢職・議定(ぎじょう)に選ばれた大納言経験者の中山忠能(ただやす)が「小御所会議」の開会を宣言し、「無私公正をもって新王政の基本を公議したい」との、外孫の関係にある明治天皇の意を伝えた。これを受けて議定や、やはり中枢職の参与として出席していた親王や公家のなかから前述の意見が出たとき、議定職の土佐藩の老侯(前藩主)、山内容堂が声を張り上げた。