話の肖像画

輪島功一(23)「疑惑のパンチ」で視界ゼロ…再び失冠

7回、柳済斗選手(左)に3度目のダウンを喫し、再び世界王座を失った=昭和50年6月7日、福岡県の北九州市立総合体育館
7回、柳済斗選手(左)に3度目のダウンを喫し、再び世界王座を失った=昭和50年6月7日、福岡県の北九州市立総合体育館

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《「奇跡」と称された世界J・ミドル(現スーパーウエルター)級王座奪還の喜びに長く浸ることもなく、通算7度目の防衛を目指すタイトル戦が昭和50年6月7日、北九州市立総合体育館で韓国の柳済斗選手を挑戦者に迎えて行われた》


柳選手は1階級上のミドル級の東洋王者で、このときすでに14回も防衛していた。日本選手にめっぽう強く、「日本人キラー」の異名をとっていました。一方、私は日本王者から東洋をスルーして世界王者になったという事情もあり、実は韓国選手と対戦するのは初めてでした。

「日韓決戦」とか対抗心をあおるような報道も目立ちましたが、私は韓国人に対しては親近感を持っていた。今もそうです。土木作業の現場で知り合った何人もの韓国人は皆、家族思いで仲間意識が強く、いい人ばかりだったからです。ただ、こうした感情がこの試合に関しては、心に隙を作ってしまったのかもしれません。


《「疑惑のパンチ」を浴びたのは5回終了時だった》


柳選手は元来ミドル級の選手で、私はもともと1階級下のウエルター級。体の大きさが二回り違い、これだけの体格差を感じた試合は初めてでした。

27歳と私より5歳若い柳選手を相手に、試合を長引かせると不利になると感じた私は初回から積極的に仕掛けました。一方、柳選手は硬さが目立ち、私の左リードパンチが小気味よく決まり、序盤は優位に試合を進めることができました。

そして5回終了のゴングが鳴ると同時に私は両腕のガードを下げ、軽くお辞儀をして「ご苦労さん」の意思表示をしようとした。するとそこへ、柳選手の右ストレートが飛んできて顔面で受けた私は尻もちをついた。三迫仁志会長が脱兎(だっと)の勢いでリングに飛び出し、「反則パンチだ。ペナルティーを科せ」と抗議しましたが、レフェリーの裁定は「終了のゴングと同時のパンチ」というものでした。

しかし、これは矛盾していた。同時ならば私の尻もちはダウンと認定されるはずですが、3審判の5回の採点は全員がイーブンだったのです。納得がいきませんでしたが、そもそも終了のゴングと同時に身を翻すぐらいの警戒心があってしかるべきだったのに安易に無防備となった自分が悪いと言い聞かせ、試合続行に応じました。

ただ、このパンチ、相当効いてしまったのです。


《6回は何とかしのいだものの、7回に3度のダウンを奪われ、KO負けを喫した》


ダメージは目に来て、6回はほとんど前が見えなくなった。勘だけでパンチを繰り出し、間違えてレフェリーに向かって突進してしまったこともあった。7回に右のロングフックと返しの左フックを浴びて最初のダウンを喫したときも、全くパンチは見えませんでした。

試合終了後、控室で三迫会長は「冗談じゃない。(統括団体の)WBAに提訴して無効試合にする」と怒りまくっていましたが、私は「会長、もういいよ。彼はいい選手だ」と押しとどめました。妻の滝代は今度こそ私が引退すると信じたらしく、「おとうさん、(負けて)よかったですね」と言ったのを覚えています。

翌朝、柳選手が滞在先のホテルに見舞いに来てくれ、私は「おめでとう。私以上の防衛記録をつくってもらいたい」と激励しました。柳選手は深々と頭を下げていた。

あの時点では確かに「悔いはない。引き際はきれいにしたい」と思っていました。しかし、再び心に火がつくのに時間はかかりませんでした。(聞き手 佐渡勝美)

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