《昭和49年6月4日、米国のオスカー・アルバラード選手を挑戦者に迎えた世界J・ミドル級王座の7度目の防衛戦で15回KO負けを喫し、試合後に搬送された東京・新橋の慈恵医大病院では「1カ月の入院・安静が必要」と診断された》
オーバーワークで体が動かず、10回ぐらいで「もう勝ち目はない」と分かっても、完全に力尽きるまで戦った代償は想像以上に大きかった。後頭部の打撲がひどくて頭痛が止まらず、1・2あった右目の視力も0・5に落ちていました。全身に痛みが走り、立って歩くこともできませんでした。
周囲はもう引退するものと確信していたようです。しかし私は「再戦して必ず王座を奪還する」と心に誓い、ベッドに横になって点滴を受けながらも、アルバラード選手を想定して頭の中でシャドーボクシングをしていた。そして入院5日目、医師の制止を振り切り、私はストレッチャーが入るタクシーを呼んで自己都合による希望退院をしました。
入院していた方が体は早く回復するかもしれませんが、入院を続けて気力が衰えるのを私は恐れたのです。ジムの三迫仁志会長にも以前、「体力の衰えは節制でカバーできるが、気力は一度衰えると戻らない」と言われたことがありました。
《高島平団地(東京都板橋区)の自宅に戻ってのリハビリ生活が始まったが、地獄の苦しみだった》
腰から尻にかけての筋肉が硬直し、動かすと激痛が走る。吐き気も止まらない。一人では歩けないのでトイレに行くにも妻、滝代の手を借りる必要があった。リハビリは滝代に支えられながら、団地の1階から13階までの階段を上り下りすることから始めました。
何とか一人で上り下りできるようになるまで2カ月近くかかり、次は団地に隣接する赤塚公園のグラウンドでの早歩きに取り組みました。ありがたかったのは励ましの声です。
公園では団地のおばちゃんに「輪島さんでしょ。死んじゃうかと思ったわよ。もう大丈夫なの?」と声をかけてもらったり、グラウンドでは部活中の近くの高校生たちに「必ずチャンピオンベルトを取り返して」と気合を入れられたり…。アルバラード戦の視聴率は43・4%あったので、輪島がコテンパンにやられたって、みんな知っていたのです。
《三迫ジムでの練習が再開できるようになったのは9月半ばだった》
滝代は現役続行に大反対で夫婦げんかになりましたが、この頃には渋々承服してもらい、トレーニングを再開しました。そして10月18日に待望の長男、大展(ひろのぶ)が誕生。私の闘志はさらに燃え盛り、王座奪還を期すリターンマッチの日取りも翌年1月21日と決まりました。
前回は練習のしすぎで体が疲弊したのが敗因でしたので、「休む勇気」を意識し、練習量は前回の半分程度に抑えて調整を進めました。そして「圧倒的不利」の予想で迎えた東京・日大講堂での雪辱戦。試合開始のゴングが鳴るやいなや、私は勝利を確信しました。いつものスピードが戻っていたからです。
1回から4回まで立て続けにポイントを奪って試合の主導権を握ると、そのまま押し切って文句のない判定勝ち。日本人では初の「同一選手からの世界王座奪還」を果たしました。
試合後の控室で、私は身重の状態でリハビリを支えてくれた滝代の耳元で「ありがとう。勝てたのはお前のおかげだ」と感謝の気持ちを込めてささやきました。(聞き手 佐渡勝美)