話の肖像画

輪島功一(20)「あっち向いてホイ」で難敵下す

6度目の防衛戦で勝利の判定が下ると、得意の「カエル跳び」を見せて、体全体で喜びを表した=昭和49年2月5日、東京・千駄ケ谷の東京体育館
6度目の防衛戦で勝利の判定が下ると、得意の「カエル跳び」を見せて、体全体で喜びを表した=昭和49年2月5日、東京・千駄ケ谷の東京体育館

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《故郷へ錦を飾る5度目の防衛を果たしてから半年後、次の防衛戦は1年前に対戦して苦戦したブラジルのミゲール・デ・オリベイラ選手を再び挑戦者に迎え、昭和49年2月5日に東京体育館で行われた》


私が1年前に引き分けで辛うじて防衛した後も、オリベイラ選手は5戦して5勝(3KO)と無敗を保ち、世界ランキングも1位を維持していた。2カ月後に31歳になる私に対して、オリベイラ選手はまだ力が上り坂の26歳5カ月。評論家や記者のほとんどが「オリベイラ圧倒的有利」と予想していました。

ただ、私には負けられない理由がいくつもあった。

当時、日本に世界王者は私一人だけで、負ければ9年ぶりにゼロに転落してしまう窮地にありました。一方、勝てば日本選手としての世界王座防衛記録(当時)の「6」に並べた。また、この防衛戦から私のファイトマネーは4千万円を超え、4カ月前には長女の大子(ひろこ)が誕生。「家族のために戦う」という気持ちが一段と強くなっていました。

しかし、まともにやったら今度は負けると、私自身も十分分かっていた。変則でトリッキーなボクシングに徹するのは当然としても、何か「秘密兵器」はないものかと試合間近まで考えあぐねていました。


《世界王座に挑戦したときに飛び出した「カエル跳び」に匹敵するような〝秘策〟を考え出した》


試合が迫ってきたある日、タクシーに乗りました。いかに戦うかを思案し続けていたそのとき、運転手が口笛を吹いて窓の外を見た。知り合いでも見かけたのでしょうが、気がつくと私もつられて窓の外を見ていた。このとき、ハッとひらめいて「これだ!」と思いました。「あっち向いてホイ作戦」のイメージができた瞬間でした。

試合では、開始と同時に私は全力で打って出た。前回苦戦したのは、初回に先にいい右ストレートをもらい、主導権を握られてしまったのが原因でしたので、この試合では逆にいかに最初の一発を当ててペースをつかむかが勝敗のポイントだと思っていました。しかし、相変わらずオリベイラ選手のガードは堅く、隙がなかった。

そこで頃合いを見て私は、大げさに視線と顔を右に向けました。すると狙い通りオリベイラ選手も視線を右にずらしてガードが下がった。私は待ってましたとばかり、力を込めて左フックを放つと顔面にクリーンヒット。オリベイラ選手はダウンこそしなかったものの、体が大きく揺らぎました。

初回のこの一発で流れをつかんだ私は、試合終了まで一度も主導権を渡さなかった。頭を低く下げ、体を大きくゆすって接近しては有効打を決めてポイントを奪い、2―0の判定で勝利。オリベイラ選手側も敗北を認める会心の勝利でした。


《不利説を覆し、日本唯一の世界王座を守った》


試合後の会見では「新聞記者の皆さんに感謝したい。負ける負けるといってオレを燃えさせてくれたのだから」とか、調子に乗っていましたね。

ところで、私が持っていた世界J・ミドル級王座はWBA・WBCの統一王座でしたが、翌年、WBCは私の挑戦者選考に難癖をつけてタイトルを剝奪。オリベイラ選手が王者決定戦を経て、WBCの同級世界王者になりました。ファンからは3度目の対戦が待望されましたが、実現しなかった。

オリベイラ選手は間違いなく、私がボクサー人生で対戦した最強の選手でした。今年10月15日に74歳で亡くなったとの報道に接し、心から冥福を祈りました。(聞き手 佐渡勝美)

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