奇妙に折られた薬袋が立証した労働者の街の殺人

国内最大の「ドヤ(簡易宿所)街」として知られる大阪市西成区のあいりん地区で昨年5月、80歳男性が暴漢に刃物で襲われ、後に命を落とした。警察はまもなく、近くに住む68歳男を逮捕したが、男は一貫して犯行を否認。凶器は見つからず、防犯カメラ映像は不鮮明なものばかり。経済成長を支えた日雇い労働者の雄姿が消え、高齢化の波に翻弄される地区で一体何が起きたのか。有罪の決め手となったのは靴に付着した不自然な染みと、奇妙な形で見つかった薬袋だった。

一瞬の隙を突いて逃走

「ドラマを見ていたら、尋常じゃない物音や怒鳴り声が聞こえたんです。慌てて駆け付けると、胸を刺されて倒れた人とナイフを持った男が立っていました」

11月に大阪地裁で開かれた裁判。事件現場の集合住宅の別室に住むAさんは、こう証言した。

事件発生は昨年5月20日の午後10時すぎ。Aさんは惨状に驚きながらも、警察や救急への連絡をほかの住人に指示した。ただ、犯人はその間の一瞬の隙を突いて階段を駆け降り、屋外の自転車に飛び乗った。

「待て、何してんねん」

追いかけてきたAさんに対し、犯人はナイフを振り回しながら、「お前も刺すぞ」と激しく威嚇。数百メートル先でAさんを振り切り、逃走したという。

刃物のさや代わりか

2日後、大阪府警は近くのドヤ街に住む無職の男(68)を殺人未遂容疑で逮捕。重体となった被害者が約半年後に死亡したことからその後、殺人罪などで起訴されたが、「そんなことは知らない。やっていない」と一貫して無罪を主張した。

暗がりで犯人の顔をはっきりと覚えている人はおらず、凶器となった刃物は見つかっていない。さらに付近の防犯カメラの映像の多くは不鮮明という状況の中、弁護側は「あいりんには被告と似た風貌や年齢の人物は多くいる」と犯人性を真っ向から否定し、検察は有罪の立証を迫られた。

検察が重要証拠と位置付けたのは、「押収した被告の靴」と「現場に落ちていた薬袋」の2点だった。

男の靴に付着した丸い染みを府警の科学捜査研究所で鑑定したところ、被害者の80歳男性のDNA型と非常に高い確率で一致する血液であることが判明。さらに、男の名前が記され、細長く折りたたまれた薬袋が犯行現場そばの廊下で見つかった。

薬袋について公判で検察側は「刃物を入れるさや代わりとして被告自身が持ち込み、(逃走の際に)落とした」との推理を展開。これに対し弁護側は「被告を陥れようとする何者かが入手してわざと現場に残した可能性がある」と反論し、無罪主張を崩さなかった。

導かれた結論は…

裁判官と裁判員による長時間の評議で、裁判所が導き出した結論は「有罪」だった。

判決当日、靴の血痕について裁判長は「出血した被害者の血が直接付いた」と認定し、「靴の持ち主である被告が犯人であることは強く推認される」と判断。男が自ら、「誰かの恨みを買ったことやトラブルに身の覚えはない」と証言していた点を踏まえ、第三者が靴をすり替えて男を犯人に仕立てた可能性は「相当現実離れしている」とした。薬袋を刃物のさやにしたとする検察側の推理に対し、裁判所は判断を示さなかったが、男が犯人であると結論づけ、求刑通り懲役18年の判決を言い渡した。男は判決を不服として控訴した。

有罪とされた男と被害男性はいずれも独居で、両者の関係やトラブルの有無など、事件の背景となる事情は公判を通じて一切明らかにされなかった。被害男性の長女は、法廷で検察側が読み上げた文書に、悔しさをこうつづっている。

「年金をもらいながら清掃のアルバイトをしていた父は『体の動く限り、生活保護は受けずにやっていきたい』と言っていました。人に迷惑をかけずに自分なりに生きていこうとしていた父が、なぜ殺されなければならなかったのでしょうか」