話の肖像画

輪島功一(17)親友対決…「炎の男」が「ちょろ火の男」に

試合当日の計量を終え、挑戦者の竜反町選手(右)と笑顔で健闘を誓い合う=昭和48年4月20日、大阪市
試合当日の計量を終え、挑戦者の竜反町選手(右)と笑顔で健闘を誓い合う=昭和48年4月20日、大阪市

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《「盟友」大場政夫選手の事故死で、日本でただ一人の世界王者となってから約3カ月後の昭和48年4月20日、大阪府立体育会館で行われた4度目の防衛戦の相手は東洋ウエルター級王者の竜反町(りゅう・そりまち)(反町則雄)選手だった。史上3度目の日本人同士による世界タイトルマッチとなった》

反町選手とだけは絶対にやりたくなかった。私にとって日本で唯一、本気でスパーリングができた練習パートナーで、親友だからです。私より階級が上のミドル級以上の選手でも当時、私のスパーリング相手はいなかったのです。力の差がありすぎてケガなどが怖くて誰も受けてくれなかった。

でも、反町選手だけは、頼めばいつでも「いいですよ」と相手をしてくれた。私が世界タイトルを奪取でき、それまで3度防衛できたのも、反町選手によるところが大きかった。いわば恩人を相手にして私の心に火がつくはずもなく、いい試合をお客さんやテレビの前のファンに見せられないことは自分が一番よくわかっていたので、ジムの三迫仁志会長にも「絶対嫌だ」と言ったのです。

前にも話しましたが、そもそも本来ウエルター級の選手だった私が、主戦場をJ・ミドル級に1階級上げたのも、反町選手の存在が理由でした。反町選手は私より4歳若いが、デビューは3年早く、私がまだ6回戦ボーイだった頃に日本ウエルター級王者になった先輩でした。その後、私が連勝を重ねて日本タイトルが視野に入ってくると、反町選手が三迫会長の出身ジムである野口ジム所属の選手だったため、試合が組みづらいという事情で標的をJ・ミドル級に変えたのです。


《しかし、結局は反町選手の挑戦を受けた》


そういう経緯があったので何で今さらと憤りましたが、三迫会長に「(野口ジムの)野口恭(きょう)会長から『反町にもチャンスをあげてほしい』と懇願された。頼むから受けてくれ」とまで言われたので、受けることにしました。私が世界王座に挑戦できたのは三迫会長のマッチメーク力のおかげであると恩義を感じていたので、顔を立てて少し恩返ししようと思ったのです。

しかし、やはりやりづらかった。「炎の男」が「ちょろ火の男」になってしまい、試合では最後まで燃えなかった。結果は私の僅差の判定勝ちでした。

つらかったのは試合後、会場から「八百長か、金返せ!」というヤジが聞こえたことです。この試合のリングサイドのチケット代は相場の倍の2万円もしましたが、すぐに予約完売しました。私が2年前に世界ランク入りをかけて、関西のスターで東洋J・ミドル級王者の金沢英雄選手を同じ会場で2回KOしたときの印象が大阪のファンには強く、観客の多くは豪快なKOシーンを期待していたのです。

試合後の記者会見でも「倒すチャンスはあったのではないか」と聞かれ、「反町選手が強くて倒せなかった」と答えましたが、心の底では「ファンに申し訳なかった」とつぶやいていました。


《反町選手とは試合後はまた親友に戻った》


私の祝勝会の会場に反町選手は来てくれ、ビールをついでくれた。お互いにまだ顔に傷が残り目も腫れていましたが、この9日後の私の結婚式にも来てくれました。

反町選手はその後、東洋王者の防衛を11回まで重ね、その間、J・ミドル級とウエルター級で2度、世界王座に挑みましたが、ついに世界タイトルは取れなかった。あと少しの運に恵まれない「悲運の拳雄」でした。(聞き手 佐渡勝美)

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