森矗昶没後80年で偲ぶ会 日本化学の礎築く 一族で衆院選当選34回

森矗昶の子孫や地元の人らが参列した「没後80年を偲ぶ会」=11月28日、勝浦市守谷の本寿寺
森矗昶の子孫や地元の人らが参列した「没後80年を偲ぶ会」=11月28日、勝浦市守谷の本寿寺

明治から昭和にかけて活躍した千葉県出身の森矗昶(のぶてる)(1884~1941年)をご存じだろうか。昭和電工を創業するなど、日本の15大財閥の一つに数えられた「森コンツェルン」を興し、現在の日本の化学工業先進国の礎を築いた。国政にも進出し、強固な地盤を継いだ親族の衆院選の当選回数は現在34回。しかし、最近は矗昶の功績を知る人が少なくなった。出身地の勝浦市では「森矗昶翁の功績を後世に伝える会」が発足し、没後80年の今年、偲(しの)ぶ会が執り行われた。

信念は不撓不屈

昭和16年、56歳で亡くなった矗昶は勝浦市守谷の本寿寺の森家の墓に眠る。11月28日、子孫や地元の人たちが参列した同寺での偲ぶ会。土屋元(はじめ)市長が矗昶の業績を紹介した。

「郷土の偉人である森矗昶老は、わが国のアルミニウム工業を開拓して今日の隆昌をもたらした。電気化学工業に新しい時代をもたらした偉大な人物です」

同市では、外房の小さな漁村から実業界、産業界、政界に進んだ矗昶の「功績を後世に伝える会」が5月にできた。土屋市長は同会の会長を務めている。

「矗昶老の信念である不撓不屈(ふとうふくつ)の精神は、勝浦の青少年の高い目標となるものです。没後80年にあたり、我々はその志を受け継いで精進し、さらに次の世代が志を引き継いでいけるようにすることをお誓い申し上げます」。土屋市長はそうあいさつした。

千葉工大設立に尽力

矗昶は明治17年、当時の守谷村で生まれた。興津高等小学校を卒業し、家業のヨード事業に従事。その後、化学肥料製造を手掛け、昭和6年に初の国産硫安の製造に成功。9年には国産アルミニウムの生産に成功した。14年に昭和電工を設立し、社長に就任。同社をはじめ最盛期には直系14社、傍系6社を擁する化学工業系の財閥「森コンツェルン」を率いた。

大正13年から4期連続、衆院選で当選。昭和7年の4期目には次点だった実弟の岩瀬亮に議席を譲るため辞退し、事業に専念した。現在の千葉工業大(習志野市)の前身、興亜工業大の設立に関与し、多額の出資を行って、産学連携にも尽力した。

偲ぶ会には、昭和電工の市川秀夫取締役会議長、千葉工大の瀬戸熊修理事長も参列した。

一族で衆院選当選34回

10月31日投開票の衆院選の千葉11区で11回目の当選を果たした自民党の森英介氏(73)は、矗昶の5男で衆院議員だった森美秀氏(故人)の長男。英介氏は矗昶の孫にあたる。矗昶は、大正13年に、当時の3区で衆院選で初当選した。

英介氏の10月の当選で、公職追放で立候補しなかった昭和22年を除き、矗昶から英介氏までの親族6人の衆院選での当選回数は計34回となった。「勝浦の皆さん、守谷の皆さんのご支援があってこそ。こんなに連続当選している家系はないと思います」。偲ぶ会で英介氏は、地元への感謝を忘れなかった。

「後世に伝える会」の佐藤啓史・勝浦市議は「まずは矗昶を知らない人が増えてきた地元で周知活動をする。そしてテレビドラマや映画化されるよう後世にしっかりと矗昶を伝えていきたい」と話している。