話の肖像画

輪島功一(15)死力の逆襲 最強挑戦者に引き分け防衛

試合終了後、勝利を確信したオリベイラ選手は手を挙げたが、結果は引き分け。薄氷を踏む思いで3度目の防衛を果たした =昭和48年1月9日、東京・千駄ケ谷の東京体育館
試合終了後、勝利を確信したオリベイラ選手は手を挙げたが、結果は引き分け。薄氷を踏む思いで3度目の防衛を果たした =昭和48年1月9日、東京・千駄ケ谷の東京体育館

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《昭和47年の暮れに急遽(きゅうきょ)、婚約を発表し、年が明けて1月9日、「最強の挑戦者」と称されたブラジルのミゲール・デ・オリベイラ選手を迎えて世界J・ミドル(現スーパーウエルター)級王座の3度目の防衛戦を東京体育館で行った》

オリベイラ選手はこのとき、世界ランキング1位で戦績は29戦29勝(19KO)と、無敗を誇っていた。私は2度の防衛戦を1回KO、3回KOと圧勝しましたが、今回は厳しい試合になるとみられていました。

試合開始前、リング中央で向き合ってレフェリーから確認事項を聞く際、まずその体の大きさに驚いた。体重はほぼ同じでも、体格は1階級上のミドル級並みかそれ以上で手足も長かった。分かってはいたが、「こりゃ大変だ」と思いました。

ただ、激しく動いて打ち合いになれば勝てるとみていた。しかし、オリベイラ選手の腕は太くて長く、ガードを固められるとボディーから頭まですっぽり隠れて打つところがなかった。さらにノーモーションでいきなり強打を放つのが特徴で、序盤はこれをたびたび食らい、コーナーに詰められました。

《初回の「スリップ」が一つの勝負のあやとなった》

仕掛けたところをかわされて、カウンターで右のショートストレートを浴びて膝をついてしまった。しかし、バランスを崩しかけていたところで当てられたパンチだったので、幸運にもレフェリーの判定は「スリップ」。あれがダウン判定だったら、あの試合は負けていたので、救われました。

4回まではやられっ放し。しかし、私が倒れないことにオリベイラ選手は驚いたようで、5回からは焦ってパンチが大振りになり、ミスが目立ってきた。さらに8回あたりからカウンターばかりを狙って前に出てこなくなった。私は手数で反撃していきました。

しかし、12回、またまたピンチに。ノーモーションでカウンター気味に浴びせられた右フックが利き、前に崩れそうになったのです。ここで倒れたら負けると思った私は、つんのめりながらも前に見えたオリベイラ選手の膝にとっさにしがみつき、辛うじてダウンを免れた。恥も外聞もない執念でした。

《絶体絶命のピンチでも、死力を尽くしてしのげたのには、2つの理由があった》

妻、当時は婚約者の滝代がこの試合はリングサイドで観戦していました。私は何としても王座を防衛し、現役の世界王者として結婚式を挙げたかった。滝代のためにも式を華やかなものにしたかったのです。この思いは、何度も倒れそうになった私をぎりぎりのところで支える、つっかえ棒になってくれた。

もう1つは、世界フライ級王者、大場政夫選手の存在でした。48年1月の時点で、日本には世界王者が私と大場選手しかいなかった。大場選手は私より1週間早く同月2日に5度目の防衛戦を行ったのですが、これが壮絶な試合だった。1回にロングフックを浴びてダウンした大場選手は右足を捻挫。足を引きずりながら戦い続け、12回に逆転KO勝ちしたのでした。

こんなことがあるのか、と思うぐらい私は感動し、勇気づけられました。だから、オリベイラ戦ではピンチのとき、大場選手の雄姿を思い浮かべては「オレもやらねば」と奮い立つことができた。私は気力を振り絞り、13、14、15回は優勢に戦い抜きました。

試合が終わったときは正直、負けたかもしれないと思いましたが、判定は引き分け。辛うじて防衛を果たすことができました。信じられない悲報が飛び込んできたのは、この16日後でした。(聞き手 佐渡勝美)

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