モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(116)ゾンバルトの言葉が響く

「新しい資本主義実現本部事務局」の看板を掛ける岸田文雄首相(中央)ら=10月15日、東京・永田町の内閣府
「新しい資本主義実現本部事務局」の看板を掛ける岸田文雄首相(中央)ら=10月15日、東京・永田町の内閣府

「新しい資本主義」-。何と気宇壮大な命名であることか。いまのところまったくイメージできない。岸田文雄首相はこの看板政策実現のために、内閣に「新しい資本主義実現本部」を設置し、自ら議長となってこれまで3回の会議を開いてきた。15人の有識者メンバーは資料を事務局に提出したうえで、3分という制限時間で「新しい資本主義」の形とはいかなるものか、それを実現するための課題とは何か、について意見を述べているという。15人という数ゆえ、そこで議論が行われるのではなく、広聴ないし公聴といった意味合いの強い会議だと考えられる。

内閣官房のホームページに掲載されているメンバーが提出した資料に目を通したが、その内容について論評する能力は私にはない。それは専門家にお任せしたい。ただ、「新しい資本主義」像を考えるには、資本主義の原点に立ち戻ってみるのも、それなりに意味のあることではないか、そう考えてこのコラムを書き始めたしだいである。

カルヴァン派と渋沢栄一の接点

そもそも資本主義とは、禁欲的なカルヴァン派のエートス(倫理的生活態度)から生まれたものだろう。日本に資本主義が根付いたのも、カルヴァン派以上に禁欲的な武士道のエートスがあったからだろう。日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一はこう記している。《武士道は、啻(ただ)に儒者とか武士とかいう側の人々においてのみ行なわるるものではなく、文明国における商工業者の、拠(よ)りてもって立つべき道も、ここに存在することと考える》

このエートスと結びついているかぎりは、資本主義は人類の宝物ともいえるものだった。なぜなら、それは隣人や社会への奉仕を前提としているからだ。ところが、エートスはいつしか希薄化し、資本家と労働者の間には深い溝が生じて、共産主義者は資本主義を強欲と結び付けて激しく攻撃するようになった。

こんなふうに考えるのは、学生時代に読んだドイツの社会学者、マックス・ウェーバー(1864~1920年)の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の影響だ。

同書でウェーバーが着目したのは、16世紀のキリスト教宗教改革の指導者であるジャン・カルヴァン(1509~64年)の「予定説」だ。旧教では最後の審判で、天国に行くか地獄に行くかが告げられる。人生で善行を積めば天国へ、悪行を重ねれば地獄へという因果の論理だ。ところがカルヴァンはこれを否定し、神の救済にあずかる者と、滅びに至る者があらかじめ決められている、と説いたのだ。もちろん本人には分からない。そして人生においてどんな善行を積もうと、どんな有力者に頼ろうと、この決定は覆すことができない。

予定説は、人々を恐れおののかすものの、じきに、ひたすら禁欲に徹して神の恩寵(おんちょう)を得ようとする態度を生みだす。どういうことか。救済されることに決まっている人間であれば、神の御心に適(かな)った生き方をするはずであると「因」と「果」を逆転させる発想をしたのである。

神の救済にあずかりたい人々は自身のエネルギーを信仰と天職にささげ、隣人や社会に貢献する生き方をしようとする。ここで面白いことが起こる。カルヴァン派はカネもうけを厳しく禁じていたが、神の御心に適った生き方をすればするほど、カネがもうかるという現象が生じたのだ。奢侈(しゃし)とは無縁に仕事にいそしんでいれば当然ともいえる。こうしてカルヴァン派の影響下にあった社会では、カネもうけに正当性が付与されてゆく。利潤は寄付されたり、蓄積され事業拡大の投資に回されたりして社会に還元されていった。

余談だが、こうしたエートスを母胎に生まれた資本主義とともに広まったのが、合理的な経営に必要な複式簿記であり、規則正しい生活に必要な機械式時計であった。旧教の牙城であったパリを追われたカルヴァンが拠点としたスイスで時計工業が盛んになったのは、空気が清浄であるというだけでなく、それなりの理由があったのだ。

奢侈への欲望、原動力の前提に

ウェーバーの切れ味鋭い分析に、なるほどと思いながらも、きれいごとにすぎるのではないかと感じるのも事実である。そんな私が近年、魅力を感じるようになったのが、ドイツの経済学者・社会学者、ヴェルナー・ゾンバルト(1863~1941年)である。彼は『恋愛と贅沢(ぜいたく)と資本主義』において、奢侈こそが資本主義発展の前提であり、人々を奢侈にふけらせた原動力は女性に対する欲望であったと述べている。主著である『ブルジョワ』では、資本主義を促進したのは旧教とユダヤ教であり、プロテスタンティズムはむしろ阻害要因となったと主張する。彼が着目したのはイタリアである。ローマ教皇庁の徴税システム、キリスト教思想とアリストテレス哲学を統合した13世紀の神学者、トマス・アクィナスの合理主義的教義、異邦人相手ならば利息を取ることを認めていたユダヤ教の教義などがあいまって、特にフィレンツェにおいて資本主義の発達を促したと見るのである。繰り返しになるが、その前提となるのは人々の奢侈への欲望だ。

同書の翻訳者である金森誠也さんは解説の中で、姜尚中(カンサンジュン)さんが書いた『恋愛と贅沢と資本主義』の書評を紹介している。

《ゾンバルトが本書で最も言いたいことは、資本主義という制度が、欠乏や価値のある稀少(きしょう)性あるいは禁欲ではなく、過剰と浪費によって活性化されてきたということであり、そしてその源に〈性愛〉にまつわるさまざまな欲望の蠢(うごめ)きがあるということである》

戦後の高度経済成長とバブル景気を経験してきた世代は、ウェーバーよりもゾンバルトの見方に、より強い説得力を感じるのではなかろうか。

『ブルジョワ』の最終章「回顧と展望」にゾンバルトはこう書いている。

《巨人資本主義が自然と人類を破壊したとの見解をもつ者は、この巨人を拘束し、彼がもともと出現した制限された場所にふたたび連れもどすことができまいかと期待するであろう。そして人々は、巨人に対し倫理的な理屈をならべて、道理をわからせようと考えた。私は、こうした試みはたちまち失敗するにちがいないと思われる》

環境破壊や格差拡大を食い止めるためにも、私たちがエートスを取り戻して巨人資本主義の制御に踏み切る可能性を信じたいが、ゾンバルトの言葉に深く頷(うなず)く自分がいる。

(文化部 桑原聡)