話の肖像画

輪島功一(10)日本王者になるも最初の「引退危機」

日本J・ミドル級王者となり、念願のチャンピオンベルトを巻く=昭和44年9月4日、名古屋市体育館
日本J・ミドル級王者となり、念願のチャンピオンベルトを巻く=昭和44年9月4日、名古屋市体育館

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《プロデビュー2年目の昭和44年も勢いは止まらず、無敗のまま日本王者に》


この年はまず2月に西日本ウエルター級新人王の野本正樹選手との東西新人王決戦に勝って、全日本新人王になりました。ただ、8連勝を記録したものの、6回判定勝ちで連続KO勝ちは7でストップ。ちょっと悔しかったですね。

ここからまた3連続KO勝ちして、12戦目にして念願の日本タイトル挑戦にこぎつけた。しかし、階級は一つ重いクラスのJ・ミドル(現・スーパーウエルター)級。なぜJ・ミドルで挑戦したかというと、当時ウエルター級の日本王者は野口ジムの竜反町(りゅうそりまち)選手で、野口ジムは私が所属する三迫ジムの三迫仁志会長の出身ジムだったからです。会長同士の仲が良く、やりにくかったのです。でも後年、私は世界戦で竜反町選手の挑戦を受けることになるので、運命には逆らえないものです。

日本タイトル戦は9月4日に名古屋で行われ、吉村則保選手に挑みました。長身でテクニシャンの吉村選手に対して私は勇気を振り絞って懐に飛び込み、左右の連打で4回KO勝ち。デビューからわずか1年3カ月で日本王者になれて本当にうれしかったです。ただ、もう26歳だったので「勝負できるのはあと1~2年。太く短くやる」と試合後に話しました。三迫会長は「やったぜ、ベイビー!」と躍り上がっていました。


《世界タイトル挑戦も視野に入りだしたが、この56日後、初黒星で挫折を味わう》


三迫会長は早くも私の世界挑戦への道筋を描いていた。問題はどのクラスで挑むかということでした。私は本来ウエルター級の選手でしたが、事情があってJ・ミドル級で日本王者になった。しかし、世界が相手となると、このクラスでは私の体格は世界標準より明らかに一回り小さかった。かといって、ウエルター級は世界で最も選手層が厚く、最激戦クラスなので試合を組むのが難しかった。そこで会長が目を付けたのが、J・ウエルター(現・スーパーライト)級でした。

各クラスのリミットは、J・ミドル級が約69・85キロ、ウエルター級が約66・68キロ、J・ウエルター級が約63・50キロ。私の普段の体重は、後年は80キロを超えていましたが、この頃は75キロぐらい。それでも10キロ以上落とすのは少し無謀に思えました。しかし、やることが早い三迫会長は、現役の世界J・ウエルター級王者、フィリピンのペドロ・アデグ選手とのノンタイトルでの試合を組んでくれました。

「勝つか、負けても善戦なら、次は世界タイトルマッチで再戦させる」と会長。チャンスをもらった私に文句はなく、試合前1週間は練習もせずに減量に徹し、J・ウエルター級のリミットより少し重い契約ウエートまで何とか落としました。

試合は10月30日に東京・後楽園ホールで行われました。ゴングが鳴って勢いよくリング中央へ飛び出したまではよかったが、あとはエンジンがかからず体が動かない。いつもと違うと戸惑っていると、開始2分過ぎにすかさずアデグ選手に強烈な右フックを打ち抜かれてあおむけにダウン。このとき後頭部を強打して意識を失い、救急車で病院に運び込まれる始末でした。


《意外とショックはなかったが、周囲の反応は違った》


敗因は過度な減量にあったことが明白だったので、「世界を狙うならJ・ミドルしかない」と踏ん切りがつき、気持ちは落ち込みませんでした。しかし、退院後に何人にも「日本タイトルをとり、世界王者とも対戦できたのだから、もう十分なのでは」と引退を勧められました。高橋美徳トレーナーには「次戦も負けて連敗したらおしまいだぞ」とくぎをさされました。

「ここでやめたら男じゃない」。心を奮い立たせました。(聞き手 佐渡勝美)

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