話の肖像画

輪島功一(9)破竹の勢いで連戦連勝、新人王に

デビューから10連勝(9KO)を飾り、三迫仁志会長(右)にねぎらわれる=昭和44年6月16日、東京・後楽園ホール
デビューから10連勝(9KO)を飾り、三迫仁志会長(右)にねぎらわれる=昭和44年6月16日、東京・後楽園ホール

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《昭和43年6月15日、デビュー戦を鮮やかな1回KO勝ちで飾ると、すぐに2試合目が組まれた》


所属する三迫ジムの三迫仁志会長のところに、いろいろなジム関係者から「輪島とやらせてくれ」と申し出があったようです。初戦は勝ったが、きっとまぐれで、25歳の新人なんて弱いに決まっていると思われていたのです。自分のところの選手に自信をつけさせるのに私は格好の「かませ犬」とみられていたわけです。

2戦目は6月30日でしたが、これもあっさり2回52秒でKO勝ち。「もしかして自分はボクシングに向いているのかな」なんて、自信めいたものが芽生えてくるのを感じました。

一方、この頃、三迫ジムは大先輩の東京五輪金メダリスト、桜井孝雄選手の世界バンタム級王座への挑戦が目前に迫り、殺気立つような緊迫感に包まれていました。

桜井さんのタイトルマッチは7月2日に東京の日本武道館で行われ、相手は私と同い年のファイティング原田さんから王座を奪った豪州のライオネル・ローズ。私もジムの練習生仲間といっしょに、スタンドから桜井さんに声援を送りました。

後に自分自身が13度も世界戦のリングに上がるとは、このときは夢にも思っていませんでしたが、この試合を観戦できたことは多くのことを学べたという点で意義深いものでした。


《日本期待の桜井選手は優勢に試合を進めたが、食い下がるローズに終盤逆転された》


2ラウンドにサウスポーの桜井さんの左ストレートが炸裂(さくれつ)し、ローズが尻もちをつくようにダウンしたときは興奮して、「行けっ、桜井さん。とどめを刺せ!」と叫んでいました。しかし、桜井さんは無理に攻めなかった。確か、10ラウンドを終わった時点では桜井さんが2~3ポイントリードしていたはずですが、残りの5ラウンドで逆転されてしまった。桜井さんの存在が、私を三迫ジムに引き入れてくれたので、この敗戦は私も悔しくてなりませんでした。

プロ初敗戦を喫した桜井さんはその後、東洋バンタム級王者となり2度防衛しますが、再び世界王座に挑むことはなかった。東洋王座を返上して引退したのは、3年後に私が世界タイトルを取る直前でした。


《自身の連勝は止まらなかった》


デビューした年は年末までに7試合を戦い、すべてKO勝ち。7戦目は東日本新人王戦のウエルター級決勝で、相手は三迫ジムの同門の武智正美選手でした。いっしょに練習している仲間なのでやりにくかったのですが、試合中は心を鬼にし、終われば笑顔で握手し合いました。三迫会長はどちらかのセコンドに入るわけにはいかないので、リングサイドでの観戦でした。

この試合後、私は「来年は日本タイトルを狙ってみたい」と大口をたたきました。もうこの頃には、「貯金して自分の店を持って商売をする」という目標は一度棚上げにして、行けるところまでボクシングに賭けてみようと腹を決めていました。

仕事の方は白岩工業で土木作業員を続け、相変わらず作業員宿舎に住んでいましたが、工事現場との往復を迅速に行い、ジムでの練習時間を少しでも多く捻出しようと、30万円で中古車を購入しました。社の送迎バスを使わず、「マイカー通勤」に切り替えたのです。

当時の現場は羽田空港でしたが、昼休みも弁当を食べる時間は5分にし、毎日6キロ、滑走路周辺を走りました。着替える時間がもったいなかったので、作業着のまま、ねじり鉢巻きで走ったので、怪しい者と思われ、警備員によく呼び止められました。(聞き手 佐渡勝美)

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