話の肖像画

輪島功一(7)五輪王者に魅せられ24歳で入門

東京都江東区塩浜にあった三迫ジム(現在は移転)でトレーニングに励む =昭和47年9月1日
東京都江東区塩浜にあった三迫ジム(現在は移転)でトレーニングに励む =昭和47年9月1日

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《北海道士別市から上京して7年半が過ぎた昭和42年12月、運命の糸に引かれるようにボクシングと出会った》


その頃、私は東京都江東区塩浜にある白岩工業という土木会社で働き、作業員宿舎に住み込んでいました。東京五輪開催から3年がたっていましたが、まだ工事ラッシュの余韻は残り、東京駅の八重洲地下街や羽田空港の滑走路建設などに関わりました。歩合制の土木作業は私の性に合っており、月20万円以上のペースで貯金は増えていきました。サラリーマンの平均月収が4万円ぐらいの時代です。貯金をして自分の店を持つという夢をかなえる確かな手応えを感じていました。

そんな師走のある日の夕暮れ、工事現場から送迎バスで宿舎に戻る途中、ふだん見慣れない光景を目にしました。古びた2階建ての建物にこうこうと明かりがともり、周囲をやじ馬とおぼしき人たちが取り囲んでいるのです。近かったので、気になった私は宿舎に帰ってから作業着のまま、そこに行ってみました。

建物には「三迫(みさこ)ジム」の看板が掲げられており、何も知らない私は「サンパクジムっていうのか」などとつぶやいていました。窓から中をのぞくと、精悍(せいかん)で引き締まった体の選手が小気味よいリズムで天井からつるされた革袋をたたいていました。それが私が生まれて初めて見た「ボクシング」でした。


《まぶしかった金メダリスト》


「なんて格好いいんだろう」。心揺さぶられ、そばにいた人に「あの選手は誰?」と聞いた私に、その人は「桜井孝雄だよ。東京五輪のボクシング(バンタム級)で金メダルを取った選手だよ」と、あきれ顔で教えてくれました。その日は大スターの公開練習日だったのです。

東京五輪が開催された頃の私は生活に追われ、テレビ中継すらろくに見ていませんでした。恥ずかしながら桜井さんの名前も、関心がなかったので日本選手がボクシングで金メダルを取ったことも知りませんでした。

後にジムの先輩としていろいろなアドバイスをしてくれた桜井さんは私より2歳上で、五輪後に鳴り物入りで三迫ジムに入ると無敗で連戦連勝を続け、この翌年には世界タイトルに挑戦します。私が目にしたときの桜井さんは、まぶしすぎるほどまぶしかったのです。


《リフレインしたパンチの音》


それからしばらくの間、工事現場でスコップで穴を掘っていても、ブルドーザーを運転していても、桜井さんの軽快なフットワーク、正確で切れのいいパンチの音が耳の中で反復する感じでした。洗練された所作にそれほど衝撃を受けたのです。

そのうち、「おれもボクシングやってみようかな」と考えるようになった。実はその頃、心に余裕ができ、何かスポーツを始めたいと思っていたのです。昼間、工事現場で体を酷使しても、まだまだ体力があり余っており、夜をもっと有効に使えないものかとストレスを感じていたのです。酒は大好きですが、倹約して貯金中だったので飲み歩くことはしなかったし、マージャンは性に合わなかった。

宿舎の近くにあったのが柔道や空手の道場なら、柔道か空手をやっていたでしょう。たまたまボクシングジムだったのでボクサーになったのですが、これも運命だったのでしょう。

忘れもしないあの年のクリスマス翌日の12月26日、私は恐る恐る三迫ジムに入門しました。ただ、直後に茨城県鹿島町(現鹿嶋市)の工事現場に駆り出されることになり、練習を開始したのは翌年3月末に東京に戻ってきてからでした。その1カ月後には25歳になりました。(聞き手 佐渡勝美)

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