「平和祈念館」建設へ活動本格化 東京大空襲の犠牲者追悼

「平和祈念館」の建設計画が議論されていた当時の都議会=平成10年3月、都庁
「平和祈念館」の建設計画が議論されていた当時の都議会=平成10年3月、都庁

東京大空襲の犠牲者を追悼する平和祈念館の建設に向け、元都議の土屋敬之氏らが市民団体を設立し、活動を本格化させている。祈念館の建設計画は30年前に浮上したが、政治的な主張を前面に押し出す展示内容に被災者らの批判が相次ぎ、凍結された経緯がある。土屋氏は「イデオロギーとは一線を画し、事実に徹した祈念館を目指す」として、現職都議らへの周知などに取り組んでいる。

敷地面積14・5万平方メートルの都立猿江恩賜公園(江東区)の一角に建つ建物。中に入ると空襲で命を落とした被災者の氏名や写真、簡単な人柄などの説明が並ぶ。落ち着いた雰囲気で犠牲者を身近に感じられる、真の意味での慰霊の場-。土屋氏らが構想する平和祈念館の姿だ。「政治的な論争をしたいなら別の場所、別の機会にやればいい。私たちは空襲の事実を客観的に伝え、静かに犠牲者を追悼できる施設の建設を求めている」(土屋氏)。

昭和20年3月10日、米軍は木造の住宅密集地を狙って焼夷弾(しょういだん)を投下した。この東京大空襲では一晩で10万人以上の住民が犠牲になった。このほか戦時中、東京は何度も空襲に見舞われたが、犠牲者を追悼する公的な祈念館は建設されないまま開戦80年の今日に至る。

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戦後50年の節目を控えた平成4年、祈念館の建設計画が浮上。知事の私的諮問機関である建設委員会が展示計画をまとめた。中身は「アジアの人々に犠牲を強いた事件や中国への都市爆撃から東京空襲に至る流れを紹介する」とするもので、展示の柱の一つは「軍事都市東京」。軍事の中枢や軍需工場が集中しており攻撃目標になったと説明していた。

東西冷戦や核軍拡、平和へのメッセージとして日本国憲法を紹介するなど、政治的な主張も色濃く、肝心の東京大空襲の展示は全体の7分の1に過ぎなかったという。建設委のメンバーには都教職員組合の幹部や社民党系の日本婦人会議幹部らが含まれていた。

9年の都議会で、当時都議だった土屋氏が展示内容を初めて取り上げた。「一番の問題は、議会に報告もなく密室で決めていたこと」と土屋氏は振り返る。展示内容が明らかになり、議会での追及が続いた結果、被災者を中心に見直しを求める声が高まった。

都は10年度の当初予算に祈念館建設に向けた調査費を計上したが、都議会は自民、公明、民主(当時)などの賛成で「展示内容などについて都議会の合意を得た上で実施する」との付帯決議を付けた。翌11年度予算にも同様の決議を付け、計画は事実上中断した。

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都は祈念館建設に向け、犠牲者の遺品や戦時中の日用品、証言映像など5000点を集めていた。現在は都庭園美術館(港区)の倉庫に保管された状態にある。

これを踏まえ、都議会共産や立憲民主、一部の市民団体などが当初計画案をベースにした祈念館建設を一貫して主張し続けている。

そこで土屋氏は、正確な経緯を広く知ってもらい、イデオロギーに偏らない祈念館の建設を目指して市民団体「正しい『東京都平和祈念館』の建設をすすめる議員と市民の会」を設立し、今年夏から本格的に活動を始めた。

全国にある同種の祈念館を視察したほか、都内の建設適地も調査。冒頭の猿江恩賜公園には、東京大空襲後に一部の遺体が仮埋葬されたうえ、敷地にも余裕があり、最適と結論付けた。

調査結果はウェブサイトを開設して公表し、冊子にもまとめて現職都議や都庁内などに広く訴えている。土屋氏は「都民の思いが詰まった5000点の遺品類が、イデオロギーの道具にされず正しく活用されるようにしたい」と話している。

■「経緯尊重を」別団体が要請

市民団体「『東京都平和祈念館(仮称)』建設をすすめる会」(宇都宮健児代表)は11月29日、祈念館の早期建設を求める陳情書を都議会に提出した。これに先立ち、同会は令和4年度の予算編成で建設計画を具体化するよう求める要請書も都に提出した。

要請書では「戦争を肯定・美化する一部の都議が多数派を言いくるめ、建設を『凍結』してしまった。平和への動きを内外に発信するため公設公営施設の建設が重要だ」としている。

同会は毎年、都や都議会に同様の要請を続けている。同会代表世話人の児玉洋介氏は「建設に向けて話し合いが進んでいたこれまでの経緯を尊重しつつ、都も議会も早期に動いてほしい」と述べた。(大森貴弘)