《昭和35年4月末、高校も中退し退路を断ち、希望を胸に北海道・士別から上京した。17歳の誕生日を迎えたばかりだった》
上京する前、父が士別市内の洋服店に私を連れていき、新しいズボンを2本買ってくれた。初めてのことで、父は「苦しくても絶対に弱音は吐くな。人の上に立てるような人間になってこい」と励ましてくれました。
当時、北海道の内陸部から本州の「内地」に行くことは、それこそ外国に行くような感覚でした。士別駅から宗谷本線に乗り、函館から青函連絡船で津軽海峡を渡り、東北本線で上野駅に着くのに40時間ぐらいかかったと思います。上野の印象は、その2年前に修学旅行で訪れたときとは違いました。折しも「60年安保闘争」の真っただ中にあり、東京全体が騒然としている感じがしました。
私はまず、当時、横浜に住んでいた母の弟を頼りました。叔父は程なくして東京都葛飾区の自動車修理工場に仕事を見つけてくれ、私は住み込みの見習工として働くことになりました。「よし、おれも将来は自動車工場の1軒でも持ってやろう」と張り切って仕事を始めたのですが、やらされた仕事といえば、車や工具を磨くことや工場の清掃ばかり。技術的なことなんて誰も教えてくれなかった。半年たっても状況は変わらなかったので、さすがにこれでは進歩もないと思い、次はガソリンスタンドの店員に転職しました。
《最終的に建設会社で定職を得るまでに10種類の仕事を転々とした》
住み込みの牛乳配達員、新聞配達員、自動車部品会社の社員、ブルドーザーのセールスマン…。いろいろなことをやりました。いずれも長続きしなかったのは決して褒められたことではありませんが、どれも半年から1年もすると「これはオレの仕事ではない」と思えてしまったのです。
ただ、横浜のガソリンスタンドに勤めていた頃、近くにあった柔道場に通い出し、2年間続けて二段の資格が取れたのは貴重な経験でした。そこの道場主は空手も教えており、空手も少しやってみました。このとき覚えた構えを左右でスイッチさせる技は、後にボクシングを始めたときに大いに役立ちました。人生、いろいろな経験をしていれば、何かが自分に運をもたらしてくれるものだと、後年、つくづく思いました。
《定職にたどり着いた決め手は、給与の高さだった》
結局はカネだったのですね。ふらふらし続けていてもしようがないと思い、とにかくまずは貯金して、何でもいいから自分の店を持って商売してみようと目標を定めたのです。
それからはどれだけ収入が得られるかという基準一つで仕事を選んだ。そうなると必然的に建設作業員ということになったのです。時代は39年の東京五輪前後で、ビル建設や道路工事のラッシュでした。仕事はいくらでもあったし、サラリーも今より格段に良かった。しかもあの頃は、建設・土木作業は歩合給、つまり出来高払いが主流で、現場監督がちゃんと各作業員の仕事量を見定めていた。
あり余る体力と頑強な身体が取りえの私には打って付けでした。ある工事現場では、つるはしを左右両方の手に持って、二刀流の倍速モードで穴を掘ったりしました。
その結果、ボクシングを始める前年の42年には、半年で120万円も貯金ができた。大卒の初任給がまだ3万円にも届いていない時代ですよ。貯金が増えると心に余裕ができ、「これはいける」と将来に希望が持ててきました。そんなとき、ふとしたきっかけで出会ったのがボクシングでした。(聞き手 佐渡勝美)