話の肖像画

輪島功一(5)漁師を断念 士別に戻り上京決意

久遠から士別に戻った頃、開拓地の自宅前で母・トヨさん(左)と末弟の孝信さん(右)と
久遠から士別に戻った頃、開拓地の自宅前で母・トヨさん(左)と末弟の孝信さん(右)と

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《奥尻島と向かい合う北海道最西端の久遠(くどお)郡の漁村(当時・大成村、現・せたな町)で、養子に入った伯父のイカ釣り漁を小学6年から手伝ったが、ひどい船酔いが治らず、16歳のとき、村の診療所で診察を受けた》


「これは治らないよ。慣れるってこともないから、漁師を続けても船酔いに苦しむだけだ。漁師は向いていないから、やめて別の道を探した方がいい」

医師の診断は残酷なものでした。私の場合、耳の三半規管が人より弱いことが船酔いの原因と分かりましたが、「治らない」と言われたことはショックでした。

私は船酔いを除けば、漁師という仕事が嫌いではありませんでした。イカはいくらでも取れたし、取れば取れただけ売れた。早く一人前の漁師になって自分で稼げるようになり、腹いっぱいうまいものを食べたい―。そんな思いでいました。

しかし、船酔いが一生治らないとなれば、話は別でした。これ以上、船酔いで苦しむのは嫌でしたし、船酔いをするようではどんなに頑張っても半端な漁師にしかなれないと思ったからです。船酔いさえなければ、ずっと北海道で漁師を続けていたと思いますが、自分なりに考え抜いた末に、漁師をやめて士別に戻る決心をしました。

士別の開拓地の両親には「もう限界だから帰りたい」と訴える手紙を書き、通い出したばかりの定時制高校の転校手続きも一人で行いました。伯父には内緒でこっそり帰ることにしました。不可欠の労働力として私を当てにしている伯父が、許してくれるはずはなかったからです。いつも私の味方だった祖母にだけは、「おれ、士別に帰る」と伝えました。祖母は「分かった。黙っておゆき」と言ってくれ、士別への旅費を渡してくれました。

4年近く住んだ久遠を飛び出したのは昭和34年5月で、村の裏山にはまだ雪が残っていました。最初に乗ったバスの中で私は、身をかがめて声をあげて泣きました。伯父や父の期待に応えられず、惨めな気持ちでいっぱいだったからです。


《士別では、家族が温かく迎えてくれた》


士別駅には兄が迎えに来てくれていた。山の上の開拓地に至る夜道では、いっしょにスキー通学した頃を懐かしく思い出しました。途中、向かい側から提灯(ちょうちん)の明かりが見えたので誰かと思えば、母でした。「ごめん。帰ってきちゃった」と言うと、私が養子に出た日に泣いていた母は「いいんだよ。お帰り」と迎えてくれ、今度は私が泣きました。家で待っていた父も、小言の一つもいわず、救われた思いがしました。

ただ私は、自活しなくてはならないと思い、開拓地には住まず、士別駅近くの食堂に住み込みで働くことにしました。主な仕事は出前持ちで、長い冬には雪や路面凍結で自転車が何回も転び、苦労しました。でも、右手に持った出前用のお盆だけは絶対に落とさなかった。自慢ではありませんが、あれは曲芸の域に達していたと思います。


《士別高校の定時制に通いながら、食堂で働く日々が1年続いたが、漠然とした閉塞(へいそく)感に包まれていた》


このまま士別にいても、やれる仕事は限られているし、将来の展望が開けない気がしたのです。そんなとき思ったのが、「東京で働こう」ということでした。東京へは、久遠中学の修学旅行で一度、行ったことがありましたが、その活気たるや北海道の最大都市、札幌の比ではないと感じていました。東京へ行けば、仕事だって何だってある。疑うことなく、希望を持ってそう信じられた時代でした。(聞き手 佐渡勝美)

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