豊臣秀吉と徳川家康によって3度築かれた伏見城のうち、秀吉が最初に築いた指月(しげつ)・伏見城(指月城)のものとみられる石垣跡が、京都市伏見区にある城の想定区域外から出土したと11月30日、市埋蔵文化財研究所(埋文研)が発表した。高さ約5メートルと想定される巨大なもので、本丸など主要区画の一部とみられる。これまで本丸のみの単郭(たんかく)式とみられた指月城が、「二の丸」なども持つ複郭(ふくかく)式の可能性も高まり、城の規模見直しを迫る貴重な手がかりになりそうだ。
JR桃山駅前整備に伴い、8~11月に指月城の想定区域外の北約400平方メートルを調査したところ、慶長5(1600)年の関ケ原の戦い後に、指月城の北東約1キロに家康が再建した木幡・伏見城と同時期の武家屋敷の石垣や門跡が出土。
さらにその下層から、東西約18メートルの石垣跡が見つかった。石垣の底部には幅約1・5メートル、深さ約0・7メートルの溝が掘られ、石垣を支える根石(ねいし)も据えられていた。石を環状に並べて根石の安定感を増す工夫も凝らされており、埋文研は「念の入った工法から、石垣の高さは最大5メートル」と想定。周囲から指月城の金箔(きんぱく)瓦が多数出土したことから、指月城の石垣と断定した。直径約17センチの丸瓦も含まれており、天守など巨大建造物の存在も予想される。
今回の調査地は指月城の本丸想定地の北西約200メートルで、城の敷地とみられていた区域の範囲外。本丸想定地を囲む石垣は北向き、新たな石垣は南向きと、互いに向き合っているため、指月城が城主の館である「二の丸」など別の区画空間も持つ複郭式の可能性が高いことも判明した。
中井均・滋賀県立大名誉教授(日本城郭史)は「新たな石垣の工法は随所に工夫がみられ、権威の象徴として築いた秀吉の気概が感じられる。この石垣を本丸のものとみても違和感はなく、範囲の再検討が必要だ」と話している。(園田和洋)
伏見城 明からの使節を迎えるため、文禄元(1592)年に豊臣秀吉が伏見・指月(現在の京都市伏見区)に建てた隠居屋敷を基に指月城を築城。4年後の慶長大地震で倒壊したため、秀吉は木幡山に再び城を築くが、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで焼失すると、今度は徳川家康が木幡山に再建する。江戸幕府3代将軍・家光期の元和9(1623)年に廃城になった。指月伏見城は、史料も少なく「幻の城」とされる。