飛鳥時代前期(7世紀前半)に建設された、わが国最古のダム式ため池「狭山池」(大阪府大阪狭山市)。聖徳太子(厩戸皇子、うまやとのみこ)や蘇我馬子が政治を主導した推古天皇の時代、灌漑(かんがい)用水を広範囲に配水した狭山池は築造に、それまで例のない高度な技術が駆使されていた。その狭山池に先行して、朝鮮半島に同様の技術を用いたダム式ため池が建設されていたことが分かってきた。それは中国からの技術的影響を受けていたという。中国→朝鮮半島→日本。具体的に判明してきた古代土木技術の系譜が明らかになってきた。
「補強土工法」
狭山池は丘陵地帯の谷間の段丘上に位置し、谷間を南北に流れる西除川(旧天野川)を堤によってせき止めたダム式のため池。築造当初の堤は東西の全長が約300メートル、高さ5・4メートル、底部分の幅は27メートルとされる。池のサイズは現状で、長さ最大約1キロ、貯水量は約280万立方メートルで、今も農業用水を送り出している。
その堤から、水を取り出して水路に送る木の樋管が出土。年輪年代測定の結果、材に使われたコウヤマキの伐採が推古24(616)年と判明。狭山池の築造は同時期、推古天皇の時代であることが分かった。