話の肖像画

渡辺元智(24)春夏連覇へ快進撃、そこに「事件」

鹿児島実の最後の打者を打ち取り喜び合う松坂投手と小山良男捕手(右)=平成10年8月、甲子園球場
鹿児島実の最後の打者を打ち取り喜び合う松坂投手と小山良男捕手(右)=平成10年8月、甲子園球場

《平成10年に春夏連覇を達成し、「平成の怪物」と称された松坂大輔投手は科学的なトレーニングで磨かれていった》


入学当時の松坂は、球はめっぽう速いのですが、コントロールが悪く、「真ん中に投げればストライクゾーン内にボールが散る。ストライクを取ってくれ」という、神頼みのような状態でした。そこで部長の小倉清一郎が徹底したノックで下半身を鍛えました。小倉の厳しい練習に、松坂はよくついていったと思います。私はブルペンの本塁ベースにボールを置き、それを当てさせる練習を繰り返すことで、コントロールと集中力をつけさせました。

グラウンドでの練習とは別に、月に何日か、都内のスポーツジムに通わせました。外国人アスリートが通うジムで、外国人のスポーツトレーナーが数値を取ってプログラムを作成、それに沿ってトレーニングをする。トレーナーからは「正しい数値を取りたいので、ジムに通う日は激しい練習は避けてほしい」といわれていました。ジムでは常にベストな状態でトレーニングをしていました。松坂は練習で手を抜いたことはありませんが、能力以上のことをやれば故障につながる。それに気をつけていました。

プールでも泳がせました。うちは昭和55年夏の優勝投手、愛甲猛の時代から水泳を取り入れていたのです。当時の野球界は体を冷やすのはタブーで、温湿布でのケアが主流。水泳は避ける傾向があったのですが、ヘルシンキ五輪の競泳で銀メダルを取った橋爪四郎さんが「水泳はクールダウンにいい。柔らかい筋肉もつく」と勧めてくれた。足が重いといえば走るのは負担がかかるので、テーピングで固定してマウンテンバイクでトレーニングさせました。マウンテンバイクを甲子園に持っていったのはうちが最初だと思います。


《快進撃が始まった》


選抜は2戦目で好投手、村田修一君(横浜など)を擁する東福岡と対戦。相手打線は強力で、ある程度の失点を覚悟していましたが、松坂は三塁を踏ませず被安打2、13奪三振で、後藤武敏に本塁打が出るなど3―0で勝てました。奈良の郡山、PL学園と関西の学校にも勝つことができ、決勝で関大一とぶつかりましたが、とにかく文武両道の関大一の人気はすごかった。試合は久保康友投手(ロッテなど)の粘投に苦戦したのですが、松坂が大会3試合目の完封で優勝。永川英植を擁して出場した昭和48年以来の栄冠を勝ち取りました。

夏は神奈川大会を6試合中5試合が2桁得点と打線好調で制し、春夏全国制覇の挑戦権を得ました。甲子園では2戦目で、初戦でノーヒットノーランを達成した鹿児島実(鹿実)の左腕、杉内俊哉投手(ダイエーなど)と対戦。この試合は小倉のデータで勝つことができました。松坂と杉内投手の投げ合いで無得点が続いたこの試合、六回裏1死二塁で小池正晃が三盗を決めた。「杉内投手に二塁への牽制(けんせい)球はない」との小倉の分析が小池の好スタートを呼び、崩すことができたのです。春夏制覇へ、難関を突破しました。


《〝事件〟が起こった》


次の試合に向け、練習会場として高校野球連盟から割り当てられた南港中央野球場(大阪市住之江区)での練習が始まるときでした。私は松坂と室内投球練習場で準備をしていたのですが、全体練習を任せていた小倉が飛んできた。「監督、やってられない」とすごい剣幕(けんまく)です。グラウンドに戻ると、まあひどい。緊張感のかけらもなく、ダラダラやっている。練習道具の準備すらできていない。小倉の怒りも無理もない。優勝候補の鹿実に勝ち、にわかに春夏連覇が現実味を帯びてくると、ここまで緩むものなのか。テレビや新聞、雑誌など各メディアの取材で50人近くいましたが、関係はありません。選手を叱り飛ばして練習中止を告げ、怒りをあらわに先に引き揚げました。(聞き手 大野正利)