真珠湾攻撃から80年 ハワイ・真珠湾攻撃の日本軍墜落機、部品を公開 茨城の記念館

一般公開のため、筑波海軍航空隊記念館の金沢大介館長(右)に零戦の破片を預ける中村泰三氏(左)=21日午後2時33分、千葉県松戸市(大森貴弘撮影)
一般公開のため、筑波海軍航空隊記念館の金沢大介館長(右)に零戦の破片を預ける中村泰三氏(左)=21日午後2時33分、千葉県松戸市(大森貴弘撮影)

ハワイ・真珠湾攻撃から12月8日で80年。攻撃の際、現地に墜落した日本軍機の一部が、開戦80年に合わせて筑波海軍航空隊記念館(茨城県笠間市)で公開される。海外の激戦地で戦後に見つかった機体の収集・復元を手がける中村泰三氏(53)=千葉県松戸市=が保管していた。中村氏は「当時の科学技術の最先端だった飛行機の視点からも、開戦を考えてほしい」と語る。(大森貴弘、写真も)

公開されるのは、零戦の機体の破片と、九七式艦上攻撃機か九九式艦上爆撃機のものとみられる操縦席の計器類。いずれも真珠湾攻撃時に墜落し、機体を回収した米兵らが保管していた。中村氏は、先の大戦時の日本軍機の復元や海外に残された残骸の収集のほか、米側の調査事業にも協力している。こうした活動を通じて、10年以上前に入手した。

真珠湾攻撃の際に墜落した飯田房太中佐の零戦の破片=21日午後2時32分、千葉県松戸市(大森貴弘撮影)
真珠湾攻撃の際に墜落した飯田房太中佐の零戦の破片=21日午後2時32分、千葉県松戸市(大森貴弘撮影)

零戦については、山口県周南市出身の飯田房太(ふさた)中佐の機体と判明している。飯田中佐は空母「蒼龍」から出撃、攻撃中に燃料タンクに被弾し帰投できないとして基地の格納庫めがけて突っ込み戦死した。享年28。大尉だったが戦死後に2階級特進し中佐となった。米国も軍人として飯田中佐をたたえて記念碑を建立し、安倍晋三元首相が5年前に訪問した。

普段は物静かだったという飯田中佐。素顔を知ってもらおうと、戦後、いとこ夫妻が周南市の自宅で小さな資料館を開き、子供時代の書のほか、飯田中佐が最期にかぶっていた軍帽や、焼け焦げた零戦のシートなどを展示した。墜落直後、炎上する機体から飯田中佐の遺体を運び出した米兵らが持ち出したもので、米側から返還されていた。

真珠湾攻撃の際に墜落した日本軍機の計器類=21日午後2時27分、千葉県松戸市(大森貴弘撮影)
真珠湾攻撃の際に墜落した日本軍機の計器類=21日午後2時27分、千葉県松戸市(大森貴弘撮影)

ただ、いとこ夫妻も亡くなったり体調を崩したりして、現在資料館は閉館している。飯田中佐をしのぶ遺品で見学できる状態なのは、中村氏が保管していた機体の破片など限られる。数センチ四方の小さなアルミ板だが、「塗料の痕跡から操縦席の内側の横部分と推測され、飯田中佐が直接触れていた可能性もある」と中村氏は話す。

一方、九七式艦攻あるいは九九式艦爆とみられる操縦席の計器類については、詳しいことは不明だ。真珠湾攻撃の直後、米海軍で航空整備士をしていた男性が後片付けをしていて入手した。この男性は海から引き揚げた機体の操縦席から取り外したと説明しており、中村氏によると計器類には確かに海水に漬かった痕跡があるという。

中村氏は先の大戦の激戦地、ガダルカナル島で見つかった零戦の残骸を自宅で保存し、不定期で一般公開している。ただ、飯田中佐機の破片などは傷みを防ぐため、要請があった場合のみにとどめてきた。筑波海軍航空隊記念館の金沢大介館長が開戦80年の企画展を検討中、かねて親交のあった中村氏に協力を依頼。企画展での公開が決まった。

企画展は12月1日~来年3月27日、同館企画展示室で開催される。中村氏は「飛行機は国力を表すともいえ、当時の科学技術の水準を知ることができる。戦争には負の側面だけでなく、さまざまな顔があることを知ってもらえたらうれしい」と話している。