新選組外伝~木村幸比古筆(8)

経営者なら必ず知っておきたい局中法度

京都に残留した当初、芹沢や近藤らが宿舎とした壬生屯所旧跡(八木家)=京都市中京区
京都に残留した当初、芹沢や近藤らが宿舎とした壬生屯所旧跡(八木家)=京都市中京区

新選組といえば、厳しい掟(おきて)「局中法度」が有名だろう。隊内に掟は存在していたものの、局中法度の呼び名は「新選組始末記」の著者である作家、子母沢寛(1892~1968年)の創作ともされている。新選組の掟はどのような過程を踏んだのか。

文久3(1863)年、14代将軍の徳川家茂上洛に合わせて京都に向かった浪士組とたもとを分かち、京都に残留した芹沢鴨や近藤勇、土方歳三らは、組織固めにとりかかった。

新入り隊士を募集したところ、京都や大坂から100人ばかりが集まったがまっとうな者がこない、元関取、侠客(きょうかく)、僧侶、浪人…。入隊しても好き放題に振る舞った。

そこでこの年の5月ごろに、芹沢、近藤、土方らが相談し、禁令をつくることになった。それが新選組の鉄の掟「局中法度書」である。

士道に背き間敷こと

局を脱するを許さず

勝手に金策を致すべからず

勝手に訴訟を取り扱うべからず

私の闘争を許さず

右条々相背き候者は切腹申し付くべく候なり

新選組隊士の一人、永倉新八の「新撰組顚末記」にはこう記されている。

《新しい面々はいわば烏合(うごう)の勢、これを統率するにはなにか憲法があらねばならぬ。そこで芹沢は近藤、新見(錦)のふたりとともに禁令をさだめた。それは第一士道をそむくこと、第二局を脱すること、第三かってに金策をいたすこと、第四かってに訴訟をとりあつかうこと、この四箇条をそむくときは切腹をもうしつくること、またこの宣告は同志の面前でもうしわたすというのであった。局とはこの一隊をさす》

さらに元治元(1864)年、第一次長州征伐の際、新選組の戦いにおいての掟「軍中法度」をつくり、その後、喧嘩(けんか)口論の禁止を局中法度に加えて隊士の規範とした。

追放ならまだしも切腹とは厳しすぎるが、戦国武将の加藤清正掟書では、「武士としてあるまじき行為した者は切腹」と厳命していた。

おそらく新選組の掟は、土方が商家・松坂屋に奉公したとき、番頭から松坂屋の家訓とともに示された奉公人としての心得をもじり、作成されたのだろう。

局中法度で切腹、粛清の隊士は約40人におよんだ。

違反行為した隊士は面前で宣告され、恐怖と屈辱感を味わわせることで、再発防止に努めた。