話の肖像画

渡辺元智(23)黄金時代は暴投から始まった

冬の月夜野合宿にて。スキーでのトレーニングは当時、めずらしかった
冬の月夜野合宿にて。スキーでのトレーニングは当時、めずらしかった

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《小山良男主将、松坂大輔投手で春夏連覇を達成した平成10年は、公式戦無敗の44連勝だった。無敵のチームは前年夏の神奈川大会準決勝での苦い経験から誕生した》


相手は横浜商でした。松坂は被安打5に抑え、うちは14安打と圧倒しながら、九回裏に2―2の同点に追いつかれて1死一、三塁に。サヨナラのスクイズが十分考えられるケースでした。これまで三塁走者のスタートが視野に入ったら、サインなしでも投球を外してスクイズを防ぐ練習を何度もやっていました。この場面、やはり横浜商が仕掛けてきた。三塁走者がスタート、それを見た松坂が外した。しかし一塁走者に気を取られた小山捕手の反応が遅れ、さらに松坂のコントロールミスで暴投となってサヨナラ負け。2年生のバッテリーは自分たちのミスで上級生の最後の夏が終わったことに、申し訳なさから泣き崩れていました。

チームの能力は高い。なぜ勝てなかったのか。その夏、群馬県月夜野町(現みなかみ町)にある民宿「常生館」に泊まり込んで合宿をしました。山中なので練習場は利根商のせまいグラウンドしかない。監督に就任したての昭和44年ごろ、かつてロッテがキャンプをしていた伊豆大島のマイアミ球場で、草むしりから合宿を始めたことを思い出しました。あえて不便な環境を選んだのです。そこで小倉清一郎部長と連日、猛練習。同級生の小倉とは高校時代、厳しかった笹尾晃平監督に徹底的にしごかれました。「これだけやったのだから負けるわけにはいかない」。その原点に戻るような練習で、1年生の松本勉が何度もひっくり返ったほどの厳しさでした。こうして新チームの結束が固まっていったのです。


《44連勝は薄氷を踏むような勝利から始まった》


春の選抜大会に向けた秋の県大会の初戦、藤嶺藤沢と対戦しました。私は当時、夏の敗戦のストレスや月夜野での猛練習の疲れもあって不整脈で入院中でした。しかし小倉が「采配を頼みます」と病院に迎えに来てくれた。週末で主治医がおらず、看護師さんに頼んで点滴を外し、球場に行ったのです。試合は3点リードの七回、松坂が攻められて1点差となり、なおも三塁にランナーを背負う展開。夏の横浜商のときと同じ、スクイズを警戒する場面です。

三塁走者が走ったので、気配を察知して小山は立ち上がりました。ところが今度は松坂が外すことができず、投球が主審のプロテクターに当たって走者が生還、同点に追いつかれた。夏の悪夢の再現です。その後、八回裏に相手二塁手が転倒して飛球を落とし、4―3で辛くも勝利を拾いました。

その後、県大会を勝ち進み、決勝ではヤクルトに行った館山昌平投手がいる日大藤沢を下して優勝。関東大会も制して選抜出場を決定的にしました。しかし心のどこかに、あの藤嶺藤沢戦で繰り返されたスクイズを外すミスが引っかかっていました。


《異例の冬合宿を行った》


強いチームは同じミスを起こさない。何か、技術以外のことを磨かなければ。そこで月夜野で冬の合宿を行いました。雪深いお寺で座禅をしたり、常生館でミーティングなどを重ねたのです。足腰を鍛える目的でスキーもやりました。捻挫の危険性もあり、当時の高校野球ではめずらしい試みだったと思います。私はリフトで登っていくのですが、選手たちは斜面を登らせました。後藤武敏はずるずる滑り落ちて苦戦してましたが、松坂や小池正晃、常盤良太なんかは器用に登ってくる。野球ではライバル意識をむき出しにする個性派集団でしたが、慣れないスキーでは助け合うしかない。春の選抜に向け、チームワークが芽生えていく手応えも感じていました。(聞き手 大野正利)

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