国連加盟に貢献 「ミス・ヤマネ」は34歳で殉職した

外務省前で写真家の土門拳が撮影した山根敏子。日本初の女性外交官として脚光を浴びた(遺族提供=鳥取市歴史博物館寄託)
外務省前で写真家の土門拳が撮影した山根敏子。日本初の女性外交官として脚光を浴びた(遺族提供=鳥取市歴史博物館寄託)

65年前の昭和31(1956)年12月、国際連合に加盟し国際社会復帰を果たした日本。女性外交官第一号の山根敏子はその実現に大きな貢献をしながら、悲願の加盟を見届けることなくその年の8月、飛行機事故で不慮の死を遂げた。敏子の存在は長らく歴史の中に埋没していたが、生誕100年の今年、その足跡に光を当てる展覧会がゆかりの鳥取市で開催され、34年の短い生涯を惜しむ声が広がっている。

世界に知られたミス・ヤマネ

「仕事の多くは敏子様にヘルプされた所でありましてこれにつけても益々敏子様が惜しまれてなりません」

敏子の死から8年後、日本の国連復帰への尽力などを理由に、初代国連大使を務めた外交官、澤田廉三に勲一等瑞宝章が贈られた。その栄誉を受けて澤田は、敏子の父、甚信(じんしん)にあてた手紙にこうしたため、敏子をしのんだ。

敏子がニューヨークの国連日本政府代表部勤務を命じられたのは昭和27年、30歳のとき。敗戦からまだ7年、日本は国連にオブザーバー参加し、加盟を目指していた。敏子は昼間、国連で開かれるさまざまな会議に出席し、その模様をこまめに本国に伝えた。ときには会議の場で発言をしたり、夜は外国要人とのレセプションやパーティーに出席して情報収集したりして、日本の国際的地位回復に努め「体が3つ位ほしい程」(母への手紙)の忙しさだった。

その人柄を、当時の外相、重光葵(まもる)は敏子への弔辞(葬儀では代読)の中でこうつづっている。

「明朗真摯(しんし)な人柄は国連事務局での各国代表部の間でも日本代表のミス・ヤマネといえばチャーミングな『ウーマン・ディプロマット(女性外交官)』として汎(あまね)くその名がとおる程著名でありました」

国連の本会議場で日本代表団の一員として会議に参加した山根敏子(遺族提供=鳥取市歴史博物館寄託)
国連の本会議場で日本代表団の一員として会議に参加した山根敏子(遺族提供=鳥取市歴史博物館寄託)

大志を抱いた乙女

山根敏子は大正10(1921)年11月14日、北海道帝国大助教授(当時)だった甚信、母の茂世の3番目の子供(次女)として札幌で生まれた。父の転勤に伴い9歳で台湾に渡り、16歳で東京の津田英学塾(現・津田塾大)に進み英語を学ぶ。卒業後は台湾に戻り、台北帝国大に入学。昭和19年9月に繰り上げ卒業したあとは、台湾軍司令部情報班勤務などを経て、23年に父の古里の鳥取市に帰国し、翌年から鳥取県教育委員会に勤務した。

そして25年、国が初めて女性の応募を認めた外交官領事官試験(募集12人に1000人以上が応募)に28歳で合格。日本初の女性外交官として外務省国際協力課勤務を経て渡米、同代表部勤務となった。

鳥取市での展覧会では、幼少期から世界へはばたくまでの敏子の姿を伝える数々のエピソードが紹介されている。

北海道時代、自宅は「少年よ大志を抱け」の名言で知られるウィリアム・スミス・クラーク博士の胸像近くにあり、「敏子はこの胸像から『乙女たちよ、大志を抱け』という声なき声を聞いた」という。また、外交官試験合格後の研修では「グループディスカッションの際、自分の正しいと思ったことは一歩も退かなかった」。

一方で、鳥取県教委時代には「役所内で計画された催しにはほとんど参加し、嫌な顔せず自らその雰囲気に溶け込んで楽しんでいた」とされ、エピソードからは芯が強く柔軟でもあった女性像が浮かぶ。

また、外務省本省勤務時代には、女性初の外交官として注目を集め、雑誌などに取り上げられ、写真家の土門拳が撮影した写真も残っている。

「日本初女性外交官 山根敏子」展のギャラリートーク。多くの市民らが訪れて解説に聴き入った=鳥取市
「日本初女性外交官 山根敏子」展のギャラリートーク。多くの市民らが訪れて解説に聴き入った=鳥取市

帰国途上の飛行機事故

敏子が4年間の国連日本政府代表部勤務を終え、ニューヨークからカナダ経由で帰国の途についたのは昭和31年8月29日午後6時半。それから3時間15分後(日本時間8月30日午後4時45分)に、搭乗したカナダ太平洋航空機が米国アラスカ州で墜落し、敏子は帰らぬ人となった。

「敏子の前に敏子がなかったにせよ、敏子の後には多くのすぐれた女性が輩出することを望んで止まない」

両親の落胆は大きかったが、甚信は敏子の1周忌に合わせて執筆した冊子にこう記した。その思いが35年、「山根奨学基金」創設として結実。発起人には澤田や外務省関係者らが名を連ね、「女子学生のうち、(中略)故山根敏子氏の遺志を継承するに足る人材」の育成に努めている。奨学生は今年10月までで276人におよび、最高裁判事や大学総長、国連職員らを輩出している。

甚信は「今では、敏子の肉体は消え去りましたけれども、その魂は滅びることなく、より若い世代に移行しつつあると思うのであります。そして、一人の敏子ではなく、たくさんの敏子となって甦(よみがえ)りつつあると考えるようになりました」と、著書「甦る魂」でつづっている。

敏子の甥(おい)で医師の山根徹さん(65)=山梨県=は「叔母はわたしが生まれた年に亡くなったので、直接は知らないが、努力の人だった。英語をベースに世界に飛び立った。努力をすれば何でもできるということを教えてくれている」と話した。

鳥取市歴史博物館の特別展「日本初女性外交官 山根敏子」は12月26日まで。(松田則章)