話の肖像画

渡辺元智(22)「大型チーム」でも勝てないのが甲子園

敬遠される紀田彰一選手=平成6年8月、甲子園球場
敬遠される紀田彰一選手=平成6年8月、甲子園球場

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《平成6年は甲子園に春夏出場を果たした。後に複数の選手がプロ野球で指名される、大型チームだった》


投手には150キロの速球を投げる矢野英司(法政大を経て横浜ベイ)と1学年下に横山道哉(横浜ベイ)が、野手では紀田彰一(同)、多村仁(同)、斉藤宜之(巨人)がおり、全国制覇してもおかしくないチームでした。それが春は初戦に大勝した後、2回戦で高嶋仁監督の智弁和歌山にやられてしまいました。

あの試合はもうちょっと分析していれば勝てた試合でした。後で知ることですが、もともと智弁和歌山は速球にはめっぽう強く、さらに矢野の速球を打つためにおそらく150キロ近い速度のマシンでガンガン練習をしたそうです。矢野が変化球を織り交ぜていたら、抑えられていたでしょう。しかし矢野は速球にこだわった。そしてコテンパンに打たれてしまった。

試合前の待ち時間が印象に残っています。当時の甲子園球場では、次の試合の出場校は通路で向かい合って座って待つのですが、前の試合が延長に入って待ち時間が長引いた。私は智弁和歌山の次はどこと当たるのか、など余計なことを考えていたのですが、高嶋さんは横浜高校にはスーパースターがずらりといる、絶対に勝ってやるぞと、ギラギラとしていました。そして結果は2―10。夏こそ必ず全国制覇を、と決意が新たになりました。

智弁和歌山はそのまま勝ち上がり、決勝でPL学園を下して初優勝です。智弁和歌山はこれを機にグーンと伸び、強豪校の仲間入りを果たします。今年の夏も全国優勝しました。智弁和歌山が強豪校となる過程において、うちとのあの試合が大きな転換点のひとつだったのではないか、と思っています。


《満を持しての夏の甲子園。優勝候補として大会6日目第3試合に登場したが、ここにも落とし穴が待っていた》

抽選の結果、初戦の相手が那覇商に決まりました。春のこともあり、試合前には小倉清一郎部長と相手を入念に研究し、準備は怠らず試合に入りました。しかし試合が始まると、意外な展開が待っていた。

神奈川大会4本塁打の主砲、紀田がまさかの4打席連続四球です。その2年前、星稜の松井秀喜選手の全打席敬遠は批判が集まりましたが、紀田の場合は敬遠は最後の1打席だけで、ほかの3打席は相手捕手が外角に構えて投球が外に外れての四球。相手投手はときおり横手から投げるなど変幻自在で、紀田の前後を固める斉藤、多村らが翻弄され、終わってみれば2―4。満塁までは攻めるのですが、あと一本が出なかった。紀田はバットを振らないまま、夏の甲子園を去ることになりました。

伏線はありました。その年の春、招待試合で沖縄に行ったんです。そのとき、紀田が沖縄尚学やほかの高校相手に本塁打を量産していた。この招待試合での内容を那覇商は分析したのでしょう。そして紀田さえ打たなければ、大丈夫だと試合に臨んだのではないでしょうか。やはり高校野球はチームワークです。ドラフトにかかるようないい選手がそろっていても勝てないことを胸に刻みました。


《2年後の8年春、松坂大輔や小山良男、後藤武敏ら、シニアの有望選手たちが入学した》


地元横浜の中本牧シニアにいた小山と小池正晃、常盤良太らが全日本選抜に入ったとき、江戸川南シニアから選ばれた松坂に声をかけたと聞きました。彼らが1年生の夏に甲子園に出場しているのですが、ベンチ入りしたのは後藤だけ。松坂や小山は大会前の甲子園練習に参加させ、試合ではアルプススタンドで応援でした。いい選手が多くても勝てない。春夏連覇を達成した松坂の代のチーム作りも紆余(うよ)曲折を経てのものでした。(聞き手 大野正利)

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