話の肖像画

渡辺元智(21)「名参謀」登場 二人三脚で頂点を

練習日にノックを行う小倉清一郎氏(中央)。本人は右奥 =平成15年3月、甲子園球場
練習日にノックを行う小倉清一郎氏(中央)。本人は右奥 =平成15年3月、甲子園球場

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《昭和55年夏の全国制覇後も頂点への挑戦が続いた。平成2年、名参謀が加わる。高校時代の同級生、小倉清一郎(きよいちろう)さんだ》

実力伯仲の強豪校との対戦では緻密な戦い方は欠かせません。投手のくせを見抜いての盗塁や守備での内外野の連係など、正確な細かいプレーでの紙一重の差が勝敗を分けることがあるからです。小倉は高度な戦略をチームに植え付けることや対戦校のデータ分析が非常に上手な指導者でした。

高校時代、私は外野手で、小倉は捕手でした。小倉はそのころから野球への探求心が旺盛で、多くの試合を観察していました。そして誰に対してもずばりと物をいう。厳しかった笹尾晃平監督や上級生から特別な目でみられていて、「生意気だ」と叱られ役でした。小倉はまったくめげず、厳しい基礎練習でくたくたになっても打撃投手を買って出るなど、野球小僧がそのまま大きくなったような男です。法政二高で全国優勝投手となった柴田勲さん(元巨人)と同じ中学で、1学年上の柴田さんの投球を受けていたと思います。小さいころから全国レベルの選手に触れたことで、より高いレベルの野球を目指すようになったのではないでしょうか。

《厳しい指導者だった》

小倉はかつて横浜高校で指導していたことがあったのですが、その後は横浜商でコーチとなり、58年には古屋文雄監督を支えて春夏全国準優勝に導くなど勝利に貢献していました。捕手出身なので、理詰めのデータ野球が小倉の特技です。横浜高校に復帰後は私と同じように教員免許を取り、職員室で机を並べていましたが、高校時代と違ってまあよく勉強する。野村克也さんの野球理論を研究していて、ミーティングなどでは「そこまで教えるか」というくらい、細かい守りのフォーメーションを伝授していました。

試合前には対戦相手のデータを記した「小倉メモ」が渡されます。相手打者の打球方向の傾向や得意な球種、コースなど細かい情報が書き込まれたもので、私や部員たちは小倉メモをみて投球の組み立てや守備位置に生かすのです。練習では熱血指導で部員を鼓舞するのですが、これが厳しい。ノックがうまくて、部員を技術的にも肉体的にも追い込むような指導をしていました。大学時代も後輩には厳しかったようで、北陸地方のある市長が「私は大学の野球部時代、小倉さんに相当鍛えられました」と懐かしがっていました。厳しいのですが、不思議と憎めない。練習では小倉が体力、技術、作戦面を、私は主に投手と精神面での指導を担当する、2人体制ができあがっていったのです。

《試合中も監督、部長の名コンビだった》

小倉には部長としてベンチに入ってもらいました。采配は私がとりますが、試合中に気づいたことを選手にアドバイスしてもらうのです。マスコミで報じられた話ですが、春夏連覇の平成10年夏、PL学園との準々決勝で松坂大輔が二回に連打で3点取られた。速球でも変化球でもPLの打者が迷いなく振ってくるんです。「おかしい」と捕手の小山良男が気づき、小倉が確認した。そして松坂が投球に入る前の小山の構えで球種が見抜かれていたことがわかった。すぐに修正しましたが、小倉が小山のくせを発見しなければ、あの試合はやられていました。

裏目に出たこともあります。神奈川大会のある試合で、相手投手は制球が悪く、黙っていても四球で進塁できるところ、選手が次々に盗塁して二塁で刺される。「なぜだ」と思っていたら、小倉が背中から行け行け、と。こうした失敗も含め、あうんの呼吸で激戦を勝ち抜く経験を重ねていきました。再び全国制覇へ、二人三脚での挑戦が続きました。(聞き手 大野正利)

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