日曜に書く

「光州事件」と言論の不自由 論説委員・長戸雅子

10月、韓国・ソウルで執り行われた盧泰愚元大統領の「国家葬」(ロイター)
10月、韓国・ソウルで執り行われた盧泰愚元大統領の「国家葬」(ロイター)

その街に入ると空気が一変する。シャッターが軒並み下ろされた無人の商店街に「戒厳軍打倒」と書かれたビラが風に乗って舞い上がる。緊張をはらんだ不気味な静けさ…。それは、流血の惨事への前兆だった。

1980年5月18日、韓国南部の光州で軍が市民のデモ隊を武力で鎮圧、約200人が犠牲になったとされる「光州事件」を題材にした韓国映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」(2017年)のハイライトはリアルな事件の再現シーンだ。 取材のため韓国入りしたドイツの放送記者が光州潜入を試みる。ソウルのタクシー運転手の協力を得て現地にたどり着き、当局の妨害に遭いながら映像で事件を世界に発信する―。実話をベースにした映画は韓国で1200万人以上を動員する大ヒットとなった。

否定・批判に刑事罰

光州事件が今も「終わっていない」ことを実感させられたのが、先月末の盧泰愚(ノ・テウ)元大統領の国家葬だった。弔辞で金富謙(キム・ブギョム)首相は「現代史に消せない大きな過ちを犯したことは動かせない事実だ」と盧氏を批判した。軍人だった盧氏がこの事件で市民を弾圧した側だったことを念頭に置いた発言だった。

韓国の民主化は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展とさまざまな民主化要求運動によって実現された。中でも光州事件をめぐっては、「暴動、蜂起」としてきた保守派と「民主化の原点」(文在寅大統領)とする左派が対立。現在は「民主化運動」と定義されているが、「だれが市民への発砲命令を下したのか」「北朝鮮の介入の有無」をめぐり、政権が代わる度に調査が繰り返し行われてきた。

文氏の光州への思い入れは深い。就任直後の記念日に現地で演説を行い、昨年には「北関与の疑惑」など、事件への否定的見解や批判を「歴史を歪曲(わいきょく)する犯罪」として取り締まる法律を成立させた。これらの歴史観に合致する描写の「タクシー運転手」を文氏が絶賛したのは言うまでもない。

「成果」をひとり占め

事件への異論を封じること自体「民主化」とは逆行する行為だ。それに加えて、「民主化の旗手」を自称する文氏のもとで「対北朝鮮ビラ散布禁止法」「メディア仲裁法改正案」(与党は9月に採決断念)など、言論や表現の自由を縛る法律や法案の提出が相次いだのは皮肉としかいいようがない。

韓国政治に詳しい李相哲龍谷大教授は「韓国の民主化は、光州事件と左派系の人たちだけの努力でもたらされたのではない。民主主義が定着する土台となった『漢江の奇跡』を成し遂げ、自由を望んだ国民全体の成果だ」と語る。

文政権下での「言論の不自由問題」は「文氏と政権周辺に寄生する人たちが自分たちだけの成果と吹聴していることに根本的な問題がある。しかも彼らの主張する『民主化』は真の民主化ではなく、北に同調する社会主義化だった」と指摘する。

上昇したか民主主義

「衰退の期間を経て、再び民主化が進んだ」―。各国・地域の民主主義を研究しているスウェーデンの独立機関「V―Dem」は今年3月の「民主主義リポート2021」で、韓国の民主主義レベルはこの10年間で著しく上がったと評した。

「三権分立」や「公正な選挙の実施」など約500もの詳細な項目に基づく横断的・客観的な調査で知られるV―Demだが、こと韓国に関しては、言論の自由を縛る法律、現与党に有利な検察改革、司法の独立の疑わしさなど、見落とされている要素が多々あると感じる。

過大すぎる評価と思うが、ならばこれを生かさぬ手はない。この評価に応え、地域の民主主義に貢献できる行動がある。

民主化から軍によるクーデターという自国と逆の経過をたどろうとするミャンマーへの実のある、継続的な支援だ。韓国は、日本を例外とすれば、他国の内政にあまり干渉しない。しかし文氏はミャンマー軍を非難する声明を3月に出し、5月には「今日のミャンマーに昨日の光州を見る。光州がミャンマーの希望になることを切に望む」と発信した。

クーデターから9カ月余。韓国はすでにミャンマーへの人道支援などを行っているが、日本を含めた国際社会を巻き込む形で自国の政治経験を生かす方策を考えても良いのではないか。「成果の共有」だ。それは刑事罰などよりよほど、先人の苦労や犠牲への報いとなるはずだ。(ながと まさこ)