話の肖像画

渡辺元智(18)消えたもう一人のエース

夏の全国大会の初戦、大会第1号の本塁打を放った愛甲猛選手=昭和55年8月、甲子園球場
夏の全国大会の初戦、大会第1号の本塁打を放った愛甲猛選手=昭和55年8月、甲子園球場

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《1年生エースとして昭和53年夏の甲子園で1勝を挙げ、一躍人気者となった愛甲猛投手が、「野球部を辞めたい」と秋から練習に姿をみせなくなった。ある日、逗子署から「愛甲君を補導した」と連絡が入った》

口数の少ない愛甲は当時、何も話しませんでしたが、後から肘や肩に違和感があって思うような投球ができなかった、と聞きました。思い通りの投球ができないのにどこに行っても人だかりで、「野球はやりたくない」という気持ちになっていたのでしょう。そんなときに中学時代の非行仲間と出会ってしまった。逗子署で会ったその日は何も聞かず、自宅に帰しました。その後も愛甲の自宅を訪ね、「今、野球から逃げたら挽回できないぞ」「みんな待っているぞ」と語りかけました。そしてグラウンドに戻ってきてくれる日を、ひたすら待ち続けたのです。

練習では愛甲の同級生、川戸浩を新たな主戦投手として育てていました。愛甲と同じ左腕で、ほかのチームではエースになれる力を持ちながら、練習では一切妥協しない努力家です。入学当初は厚遇される愛甲を横目に打撃投手を黙々と務め、その後も文句ひとつ言わずにブルペンで投球練習を続ける選手でした。愛甲が戻ってこなかったときは川戸を中心に投手陣を回していこうと思い、川戸にも「お前がエースだぞ」と伝えていたのです。

《愛甲投手が帰ってきた》

年が明けて新入生が入ってくるころでしょうか。グラウンドに愛甲が帰ってきました。「もう一度、やらせてください」。安堵(あんど)とともに、夏の神奈川大会に「まだ間に合うな」と思いました。投打の中心である愛甲がいるのといないのでは、戦力がまったく違ってきます。今度こそ夏の全国制覇を。頂点を目指す日々が始まりました。

生活環境を変えるため、私は愛甲を自宅にあずかることにしました。これがよかった。一緒に住むことで愛甲の知らなかった一面を垣間見ることができたのです。私はどこか陰のある青年と思っていたのですが、私がいないときは妻とよく話をするらしく、「すごくしゃべってとてもいい子だよ」と教えられました。幼いころに両親と別れ、親戚の家を転々とした苦労人の妻は、愛甲のよき相談相手になってくれたようです。愛甲はその後、私にも明るい表情をみせるようになり、以前とのギャップに驚いたことを思い出します。

《一難去ってまた一難が》

2年連続出場をかけた54年夏の県大会が始まりました。愛甲は半年近く練習から離れており、以前のような活躍ができるのか、計算はできません。川戸、愛甲の継投で勝ち上がり、準決勝で初めて愛甲を先発させました。愛甲は期待に応えて藤沢商を完封し、決勝も愛甲を先発に起用しました。相手は2年連続で横浜商、古屋文雄監督が目の色を変えて挑んできました。試合は打線が「ジャンボ宮城」こと宮城弘明投手に1点に抑えられ、愛甲は3失点。2年連続出場を逃してしまいました。終わった瞬間、「愛甲が冬の練習に出ていてくれたらなあ」と無念さが湧いたことを思い出します。

秋の県大会でも準決勝で横浜商の宮城投手に抑えられ、愛甲の代での全国制覇のチャンスは夏の大会のみとなりました。それでも新チームには愛甲と1年生のときに甲子園で本塁打を打った安西健二、そして川戸もいる。次の夏こそ全国制覇を、と練習に力を入れていた55年3月ごろ、川戸の姿が突然、合宿所から消えました。置き手紙には「少し考えたいことがあります」と書かれていました。(聞き手 大野正利)

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