話の肖像画

渡辺元智(17)夏の扉こじ開けた天才球児

夏の神奈川大会で力投する愛甲猛投手=昭和53年
夏の神奈川大会で力投する愛甲猛投手=昭和53年

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《昭和53年4月、とてつもない逸材が入学した。後にロッテや中日で活躍する愛甲猛投手だ》


愛甲が入学して初めての練習をみて「この選手は天才だ」と感じました。投手としては回転がかかった速球と昔でいうドロップ、縦のカーブがとにかくすごい。全国の強豪校でも打つことはできないと確信したのです。愛甲は打つ方でも速球、変化球を柔軟にさばいて長打を連発していました。これが中学校を卒業したばかりの選手か。1年生からすぐに試合に出したい、と思いました。

愛甲が東海大相模や他の実力校に行っていたら、悲願である夏の甲子園出場は当分の間、絶望です。なぜうちに来てくれたのか。愛甲の生活環境が関係していたのではないでしょうか。愛甲は母子家庭で育ち、保険の外交員で頑張っていた母親は帰りが遅い。夜は悪い仲間と外出し、素行に問題があるとの噂を聞きました。寂しかったのでしょう。両親といっしょに暮らせず、荒れていた私の幼少期と重なりました。友人に紹介されたことはありましたが、最終的には本人の意思です。私に躊躇(ちゅうちょ)はありませんでした。


《自身初の夏の甲子園出場を勝ち取った》


かつての私であれば愛甲一人で夏を取りに行っていたと思います。しかし当時は教員免許取得のため大学でさまざまなことを学んでいて、春の選抜優勝で交友関係も広がっていた。判断に深みが出ていたのだと思います。1年生をいきなりエースにすれば上級生との関係が微妙になるだろうし、本人の負担も大きい。そこで採用したのが投手の分業制です。私が母校のコーチとなったとき、当時の高橋輝彦監督がやっていたことを踏襲しました。愛甲と1学年上の田代晃久との併用で夏の神奈川大会に臨んだのです。

初戦から3試合を継投で勝ち上がり、準々決勝で初めて愛甲を先発させました。それが公式戦初先発で14奪三振のノーヒットノーラン。準決勝の桐蔭学園戦でも愛甲を先発させて延長戦を制し、決勝の横浜商戦では完投勝利、あれだけ届かなかった夏の甲子園出場を勝ち取りました。そして実績を積んだ愛甲は誰もが認めるエースとして甲子園に乗り込んだのです。


《前年夏の甲子園では東邦の1年生、坂本佳一投手がアイドル並みの人気となった。同じ1年生の愛甲投手にも、同じ現象が降りかかってきた》


初戦の徳島商戦は愛甲と同学年の安西健二に本塁打が飛び出すなど15安打、愛甲も完投して10―2の快勝でした。しかし2戦目は県岐阜商に打線が沈黙し、0―3で敗退。「もっとやれた」という悔しさと「愛甲がいる限り、次も出られる。今度こそ全国制覇を」という決意を固め、横浜に帰りました。予想外だったのが愛甲の人気です。どこに行くにも女性ファンが囲み、グラウンドは連日、人だかりとなりました。愛甲の活躍に作詞家の阿久悠さんが「愛しの甲子園」という詩を発表するなど、その人気は底知れないものになっていったのです。

その年の秋の長野国体では、初戦で名塚徹がバックスクリーンに本塁打を放つなど善戦しましたが、天理に敗退。そしてその試合の直後だったでしょうか、愛甲が驚くべき言葉を告げたのです。「野球部を辞めさせてください」。耳を疑いました。甲子園で1勝しただけで過大な人気と期待を背負い、そこまで苦しんでいたとは思いも及びませんでした。神奈川県逗子市の愛甲の自宅に何度も通い、話し合う機会を重ねました。

愛甲が戻ってくれることを願い、部員たちと練習を続けていたある夜、逗子署から連絡が入りました。「愛甲君を補導しました。穏便に済ませたいので引き受けにきてほしい」。青山梅麿部長と2人で深夜、重い気持ちで逗子署に向かいました。(聞き手 大野正利)

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