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渡辺元智(16)教免を取得、環境に変化が…

苦労して教員免許を取得。現代社会の先生として教壇に立つ
苦労して教員免許を取得。現代社会の先生として教壇に立つ

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《春は全国優勝を勝ち取ったものの、夏の甲子園出場にどうしても届かない。監督として足らないものは何か。周囲の勧めもあり、教員免許(教免)を取得することにした》


教免を取得するまでは、臨時免許で体育を教えていました。教免取得には、野球でダメになったとき、教師であればある程度の生活は保障されるという経済的な事情がありました。また教師になることで野球の指導で部員の人間性などへ視野が広がるのではという期待もあったのです。教免取得の勉強でチームを指導する時間は減ります。でも「やり遂げないと、自らの成長に支障をきたす」と決心したのです。

通信教育という方法もありましたが、対面授業の大切さを自分なりに感じていたので学校近くの関東学院大第二経済学部に入学しました。30歳すぎての大学1年生です。グラウンドから大学まではバイクで20分ほど。夕方5時すぎのギリギリまで練習し、6時から授業、また学校に帰って夜間練習という日々になりました。

大学には野球部の教え子たちがいました。彼らは昼間は野球の部活なので同じ夜間学生。授業が一緒になることがあり、「監督が遅れたので代わって出席の返事をしておきました」と気を利かせてくれたりしました。その代わり、「監督、リポートを見せてください」と頼まれて貸し、同じようなリポートを提出したことも。成績表を見て、「なんでお前がAで、俺がBなんだ」と、今では笑い話としていい思い出になっています。


《人脈が広がった》


体育衛生の授業で教わったのが、後にDeNAのチームドクターを務めた横浜南共済病院の山田勝久元院長です。また体育の先生は後に全国大学選手権を6度制したラグビー部監督の春口廣さんで、向こうの方が少し年下。2人の先生とは卒業後も親しくさせてもらいました。私と同じような年齢の同級生もいて、それぞれ事情を抱えて頑張っていました。

私は当時、高校野球部のほか、神奈川県高校野球連盟でも役員をやっており、高野連の仕事もしていました。そのため大学の授業を復習する時間がなかなか取れない。そこで授業内容をテープに録音し、時間が空くたびにイヤホンで聞いて復習していました。目まぐるしい4年間でしたが、なんとか卒業し、晴れて教免を取得しました。

私の不在中も練習メニューを部員たちはよく守ってくれ、在学中の昭和53年夏に甲子園出場を勝ち取ることができました。


《教師となり、これまでにない風景が見えるようになった》


臨時免許のときも職員室に机があったのですが、周りはみんな教免をもった先生で、私は大学中退。気にする必要はないのですが、引け目は感じていました。先生方は「全国優勝した監督さんだから」と好意的にみてくれていました。しかしながら、なんとなく私の方から視線をさけ、中に入れないような雰囲気を漂わせていたと思います。それが教免を取得後、現代社会の先生として教壇に立つことで、ほかの先生方と授業の進め方や生徒たちのようすなどを意見交換するようになったのです。

野球に関しても変化がありました。グラウンドにいるときと教室とでは、部員のようすが全く違うのです。教室でふと目にしたしぐさで、「あ、この子にはこんな面もあるんだ」と気づいたことも多かった。教室やグラウンドで、私の座右の銘である学校の創立者、黒土四郎先生の言葉について話していたので、部員たちが、だんだん「監督」から「先生」という視線でみるようになっていきました。練習後に家庭の悩みを相談する部員が現れるなど、グラウンドの雰囲気も変わっていきます。今振り返ると55年夏の全国制覇への礎が築かれていったのだと思います。(聞き手 大野正利)

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