開港期の横浜を詠んだ浄土宗僧侶の大熊弁玉をご存じか

歌集などを紹介している展示スペースの前で伝え聞く大熊弁玉の人柄や功績などを語る三宝寺の樋口芳宏住職=横浜市
歌集などを紹介している展示スペースの前で伝え聞く大熊弁玉の人柄や功績などを語る三宝寺の樋口芳宏住職=横浜市

大熊弁玉(べんぎょく)という、江戸末期から明治初期にかけて開港から文明開化の真っただ中にあった横浜の風景、風俗などを詠んだ浄土宗の僧侶の名前を、横浜の人たちはどれほど知っているであろうか-。僧侶らしく俗臭を漂わせず、その振る舞いも高く評されたという。住職を務めていた三宝寺(横浜市神奈川区)には、弁玉の作品を編纂(へんさん)した歌集や、自筆した短冊を紹介する展示スペースが設けられている。「浜っ子」を自任する人も、横浜の歴史に関心のある方も、足を向ければ往時に思いが巡るだろう。

しゃれたタイトル

歌集のタイトルは『由良牟呂(ゆらむろ)集』。「由良牟呂」とは弁玉の雅号(がごう)であり、三宝寺の第30世住職となる樋口芳宏さんが言うには、「ゆら」は玉や鈴が触れ合う音であり、「むろ」は僧侶の部屋を意味しているという。「由良牟呂」は当て字とのこと。「瑲々室」と書いて「ゆらむろ」と読ませる資料も存在しているそうだ。

楽器か何か、球形の物が接触して奏でる耳に優しい音色を部屋で満喫する-。タイトルには実にしゃれた含意がある。歌集には短歌や長歌などが収められている。

展示スペースの説明書きなどによれば、弁玉は文政元(1818)年に江戸・浅草で生を受け、天保3(1832)年には浄土宗大本山の増上寺(東京都港区)に設けられた学寮で学び始め、三宝寺の第21世住職に就いたのは嘉永3(1850)年。没年は明治13(1880)年だった。

歌集の後書きには、弁玉と同じ時代を生きた浄土宗総本山の知恩院(京都市東山区)で管長の任にあった養鸕徹定(うがい・てつじょう)住職の「弁玉評」がある。いわく、歌を詠み、書道をたしなみ、ひごろから「俗と絶し」、人柄は恬淡(てんたん)としていて、落ち着いた心持ちを有している、などと評した。

天空を移動する船

鉄道が新橋-横浜駅間で開業したのは明治5(1872)年10月。司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市)で学芸部長を務めた増田恒男さんの話では、その5カ月ほど前から仮営業が行われ、沿線住民はこの鉄道がいかなるものか、臨場感をもって体得していたという。弁玉もその一人で、こんな短歌が残されている。

「『蒸汽車』は、翼を得て空を飛ぶ、神話にある神が天空を移動する際に使う船のようだ」(大意は増田さんの解釈による)

「蒸汽車」という表現はユニークだし、目の当たりにして驚喜した当時の沿線住民の様子がありありと分かる。安政6(1859)年には、横浜港が開港したのに合わせて幕府は遊郭の建設に乗り出し、現在の横浜公園の敷地に開業した。そこで働くようになる女性に出くわした弁玉は、こう詠んだ。

「新開地横浜に移されていく遊女らの、桜花の匂うような姿、満月のような笑顔も悲しみに沈み、袖で顔を覆い、夏草のように心がしぼみ、ススキが露にぬれたようにうなだれ、横浜に連れていかれる」(同)

意に反して遊郭で働かざるを得ない女性がいたのだろうか。その哀愁が伝わってくる。

現在の横浜公園には、プロ野球の横浜DeNAベイスターズの本拠地があり、ファンや観光客らでにぎわっている。隔世の感、このうえない。

このほか、「伝(電)信機」「写真鏡」「蝙蝠(こうもり)傘」「人力車夫」など、往時の様子を扱った作品があり、生き生きと今に蘇る。

庶民の感じ方を

三宝寺は平成26年に展示スペースを設置した。寺の南側には旧東海道が走り、周辺には諸外国の領事館などに使われていた寺院などが立ち並ぶ。そんな地理的事情もあって、ウオーキングの途中に立ち寄る人や、噂を耳にした人が不意に訪れるケースもあった。

樋口さんは「激動期の横浜を単に記録したのではなく、弁玉の感性でその変わりぶりを情緒的に、歌に残した歌集です。当時の庶民の感じ方を知ってもらえれば、弁玉もきっと喜びます」と話している。