話の肖像画

渡辺元智(15)越えられない原貢監督の壁

2年連続となる春の選抜大会で登板する永川英植投手=昭和49年、甲子園球場
2年連続となる春の選抜大会で登板する永川英植投手=昭和49年、甲子園球場

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《昭和48年の春の選抜大会で初出場初優勝を達成したエース、永川英植投手が最終学年となった49年夏の神奈川大会。自身初の夏の甲子園出場に向け、勝負の大会に臨んだ》


選抜優勝で「夏も」と周囲の期待が高まっていました。前年の夏の県大会で桐蔭学園に不覚を取ったものの、秋の県大会は優勝。関東大会は準優勝でしたが、2年連続で春の選抜に出場しました。選抜は2回戦で高知高に0―1で惜敗でしたが、永川がいるチームの集大成となる夏の大会に、手応えを感じていました。

準々決勝で日大藤沢、準決勝では慶応と実力校に勝って決勝へ。待っていた相手は原貢監督が率いる東海大相模です。44年夏の県大会決勝で挑戦者としてぶつかったときは苦杯を喫しましたが、今回は永川ら選抜で優勝を経験した選手たちがいる。「今度こそ勝てる」との自信と覚悟で、宿敵との決勝戦を迎えました。


《東海大相模はこの年、原監督の息子、原辰徳(現巨人監督)が入学して話題を集めていた。選抜優勝校と「父子鷹」で注目の実力校との対戦で注目された決勝戦は、意外な展開となった》


いきなり二回に3点を奪われ、さらに五回にも1点を追加される苦しい展開になりました。永川は被安打4に抑えたのですが、エラー4つの自滅です。打線は六回に1点を返したものの、どうしても追いつくことができない。力では互角以上と思っていたのですが、なぜか勝てないのです。またしても準優勝。選手たちに油断や慢心があったとは思えません。これは監督の差であるとしか、考えられませんでした。

いったい何が足らなかったのか。登山では登頂後は下山してふもとで十分に準備を整え、また改めてふもとから別の山頂を目指します。それを私は春の選抜優勝という山頂から十分に下山しないまま、夏の大会という別の山の山頂を目指していたのではないか。選抜優勝で周囲の期待が大きかっただけに、厳しい声も聞きました。「永川がいて、なぜ夏の大会に出られないのか」。野球を離れて北海道へ、1週間ほど逃げるように渡りました。逃避旅行です。摩周湖の湖面を眺めながら、私に何が足らないのだろう、と思案にくれたことを覚えています。東海大相模はその後、辰徳君の在学中を含め、夏の大会を4年連続で制しました。壁はますます高くなっていったのです。


《東海大相模に勝つため、相模原に引っ越したことも》


選抜大会に出場する前は、大阪から来た部員と東京都大田区の平和島のアパートに住んでいたのですが、練習量を増やすために、学校近くの杉田(横浜市磯子区)や富岡(同市金沢区)の賃貸の長屋に引っ越しました。それでは転居のたびに敷金や礼金などで妻のなけなしの貯金が減っていってしまう。そこで相模原の大沼(現相模原市南区)に土地を買い、ここにバラック小屋を建てることにしたのです。同級生の遠藤健次君が大工さんだったのでお店にあった古材を使って、もうけなしで家を建ててくれました。とにかく安かった。周囲はみんなブドウ畑でしたからね。そこで部員たちに素振りをさせたりしていました。

なぜ相模原だったかといえば、打倒・原貢さんですよ。学校には安く購入したポンコツ外車のオースティンで通っていたのですが、途中にあった東海大相模を横目に「いつかみていろ、いつかみていろ」と唱えながらハンドルを握っていました。練習が終わって夜遅く帰宅するのですが、当時は水冷エンジンなのでオーバーヒートをよく起こす。民家に行って頭を下げて水をもらい、それで冷やして帰宅です。結局、通勤が不便でその後も引っ越しは続き、転居は10回くらいになりました。(聞き手 大野正利)

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